ニサルガダッタ・マハラジ|無空庵

ここでは、「ニサルガダッタ・マハラジ|無空庵」 に関する記事を紹介しています。

ニサルガダッタ・マハラジ|覚醒の巨星


ニサルガダッタ・マハラジは、覚醒の巨星、覚醒の巨人とも言われる近年の大覚者です。
参考本のところで紹介させて頂いておりますその対話録である「I AM THAT(私は在る)」は、現代随一の聖典とも絶賛されているものです。

ニサルガダッタ・マハラジは、1897年、インドのマハーシュトラ州カンダルオンという村で生まれ育ちました。
正式な教育を受けたこともなく、純真素朴な青少年期を送った彼は、その後、ボンベイに移り住み、小さな雑貨屋を営みながら、ごく平凡に暮らしていました。

ニサルガダッタ・マハラジが、はじめてグルに出会ったとき、師は彼に、

「あなたはこれが自分であるとみなしているものではない。
あなたとは誰なのか、それを見出しなさい。『私は在る』という感覚を見守りなさい。
そしてあなたの真我(本来の自己)を見出しなさい」。と言いました。

ニサルガダッタ・マハラジは、そのグルの言葉をまったく疑うことなく誠実にその教えに従い、わずか3年で真我を実現し、偉大な覚者となりました。

彼の弟子には、「誰がかまうもんか」の著書で知られるラメッシ・バルセカールや、
「ただそれだけ」の著書で知られるセーラー・ボブ・アダムソン等がいます。

わたしも、以前は、瞑想を習ったり、覚醒に関するセミナー等に通ったりして学びを進めてきましたが、
「(真我について)それならすでに知っている」という確かな確認ができたのは、
ニサルガダッタ・マハラジの「I AM THAT(私は在る)」を読んだときでした。

やはり、同じ真我を知っていたとしても、その本質的な理解の深さ等により、伝わってくる
強さ、深さ等が違います。

彼(真我)から起こる知性、そして、書籍から伝わってくる彼の絶対的な立ち位置から絶対的に離れないその在り方はとても素晴らしく、これまで素晴らしい先生はたくさんいらっしゃいましたが、
もしわたしが、誰かひとりだけ師と呼べる存在を挙げてくださいと言われたのなら、
ニサルガダッタ・マハラジを挙げさせて頂きたいと思います。
彼は、無空庵で言っている「在る」の先輩でもあります。

ニサルガダッタ・マハラジ「I AM THAT(私は在る)」から


それでは、ニサルガダッタ・マハラジの対話録である「I AM THAT(私は在る)」から、
真我、本質等について語られているところなど、何か所か抜粋してご紹介させて頂きたいと思います。

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質問者
賢者はけっして不体裁なことはせず、つねに手本となるような行為をすると聞いています。

ニサルガダッタ・マハラジ
誰が手本を示したのだろうか?
なぜ解脱した人が社会の慣例にしたがう必要があるのだろうか?
予測可能な人となった瞬間、彼はもはや自由ではないのだ。
状況の必要性にしたがい、その瞬間の必要性を満たすことのできる自由があるということのなかに彼の自由がある。
好きなことをする自由とは実は束縛であり、正しいこと、するべきことをする自由のあることが真の自由だ。

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質問者
ラーマクリシュナ・パラマハンサの妻であるサーラダー・デーヴィは、彼の弟子たちの行き過ぎの
努力をよく叱ったそうです。
彼女は、彼らを熟する前に摘み取られたマンゴーに比較して、「どうして急ぐの?あなたが完全に熟し、
甘く、芳醇になるまで待ちなさい」と彼女はよく言ったそうです。

ニサルガダッタ・マハラジ
何と彼女は正しいことか!
多くの者たちが、完全な真我実現前のつかの間の体験で夜明けを昼と間違え、過剰な自尊心から
彼の得たわずかばかりでさえも台無しにしているのだ。
謙遜と沈黙は、どんなに進歩していてもサーダカ(真我の探求者)にとって本質的なものだ。
完全に成熟したジニャーニ(賢者)だけが、己に完全な自発性の発揮を許すことができるのだ。

質問者
あるヨーガのアーシュラムでは弟子が光明を得た後、沈黙を七年、十二年、あるいは、十五年、
または二十五年にわたってまでも守っていくといいます。
バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシでさえも教えはじめる前に、彼自身二十年もの沈黙を守ったのです。

ニサルガダッタ・マハラジ
そうだ。内なる果実は熟さなければならない。
それまでは戒律を守り、気づきのなかに生きることが必須となる。
徐々に修練はより微妙になっていき、最後にはまったく形のないものとなる。


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質問者
真我の実現とは何でしょうか?
誰が実現した人なのでしょうか?
ジニャーニ(賢者)は何によって認識できるでしょうか?

ニサルガダッタ・マハラジ
ジニャーナ(真理の知識)特有の証拠というものはない。
無知だけが認識できる。
ジニャーナは認識できない。
ジニャーニは自分が何か特別な存在だとは主張しない。
自分自分の偉大さ、特別さを宣言する者はジニャーニではない。
彼らは実現に向けての何か特別な発達を、実現と考え違いをしたのだ。
ジニャーニには、自分がジニャーニだと宣言しようとする意図はない。
彼は彼自身を完全に普通だと考え、彼の真の本性に誠実なのだ。
自分自身を万能の、全知全能の神として宣言することは、明白なる無知のしるしだ。

質問者
ジニャーニは、彼の体験を無知な人に伝えることができますか?
ジニャーナはひとりの人から別の人に伝達できるのでしょうか?

ニサルガダッタ・マハラジ
それはできる。
ジニャーニの言葉は、マインドのなかの無知と暗闇を追い払う力を持っている。
言葉ではなく、その背後にある力が重要なのだ。

質問者
その力とは何でしょうか?

ニサルガダッタ・マハラジ
真我実現の直接的体験をもとにした確信の力だ。

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質問者
実在において私が何であろうと、私は小さな分離した数多くのなかのひとりの個人だと感じます。

ニサルガダッタ・マハラジ
あなたが個人として在るのは、時間と空間という幻想のためだ。
あなたが自分をある容積を占有する、ある点だと想像しているからだ。
あなたの人格は身体との同一視によるものだ。
あなたの思考と感情は時間の連鎖のなかの存在し、記憶があなた自身にある期間、存在し続けていると想像させるのだ。
実際には、時間と空間があなたの中に存在する。あなたが時間と空間のなかに存在するのではない。
それらは知識の様式だ。
だが、それらがすべてなのではない。
時間と空間は紙の上に書かれた文字のようなものだ。
紙は現実だか、言葉は表現のための約束事にすぎない。

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質問者
なぜマインドはこれらの区別をつくり出すのでしょうか?

ニサルガダッタ・マハラジ
区別することはマインドの本性そのものなのだ。
区別すること自体に害はない。
しかし分離は事実に反している。
ものごとと人々はさまざまだ。
しかし、それらは分離していない。
自然はひとつ、実在はひとつだ。
反対のものはあっても、対立はないのだ。

****************

質問者
あなたが言ったことをするには、私は絶え間なく気づいていなければなりません。

ニサルガダッタ・マハラジ
気づくことは目覚めることだ。
気づかないことは眠っていることだ。
いずれにせよ、あなたは気づいている。
そうあろうと試みる必要はない。
あなたに必要なのは、気づいていることに気づくことだ。
意図的に、そして意識的に気づいていなさい。
気づきの領域を広げ、そして深めなさい。
あなたはつねにマインドを意識している。
だが、あなた自身が意識していることに気づいてはいないのだ。

****************

質問者
あなたは考える人のようにふるまっていますが。

ニサルガダッタ・マハラジ
いけないかね?
だが私の思考は消化作用のように無意識であり、意味のあるものだ。

質問者
もしあなたの思考が無意識ならば、どうやってそれが正しいと知るのでしょうか?

ニサルガダッタ・マハラジ
それを妨げる何の欲望も恐れもないからだ。
どうして間違いを犯すことができるだろうか?
ひとたび自分自身と、自分が何を意味するのかを知れば、自分自身をつねに確かめる必要はない。
あなたの時計が正確な時を告げていると知れば、それを見るたびためらう必要はないのだ。

質問者
もしマインドでないのなら、今、この瞬間誰が話しているのでしょうか?

ニサルガダッタ・マハラジ
質問を聞いているそれが答えるのだ。

質問者
しかし、それとは誰でしょうか?

ニサルガダッタ・マハラジ
誰ではなく、何かだ。
あなたにとって、私は個人として見えるかもしれないが、あなたの言葉の意味でいう個人ではない。
私はそのなかですべてが起こる無限の意識の大海なのだ。
そしてすべての実存と認識を超えた存在の純粋な至福なのだ。
私から分離したと感じられるものは何もない。
それゆえ、私はすべてだ。
私はいかなるものでもない。
それゆえ、私は無なのだ。
 火は燃え、水は流れ、種子は発芽し、樹木は生長する。
その同じ力が私をしてあなたの質問に答えさせるのだ。
言葉や話しぶりは個人的に見えるかもしれないが、私に関しては何も個人的なことはない。
個人とは、欲望や思考や行動の一様式だ。
私の場合、そのようなもの何もない。
私には望むものも恐れるものもない。
どうして様式がそこにありえようか?

****************

ニサルガダッタ・マハラジ
・・・・・・・・・・・・・・
探求者には、彼の真我を見出すというたったひとつのゴールしか視野にない。
すべての欲望のなかで、それはもっとも野心的なものだ。
なぜなら、何も、そして誰もそれを満たすことはできないからだ。
探求者と探求されるものはひとつだ。
そして探求のみが重要なのだ。

質問者
探求は終焉するときが来ます。
探求者は残るでしょう。

ニサルガダッタ・マハラジ
いいや。探求者は消え去るが、探求は続く。
探求は究極であり、永遠の実在だ。

質問者
探求とは、欠けていること、欲していること、未完成、そして不完全を意味します。

ニサルガダッタ・マハラジ
いいや。それは不完全と未完成の拒絶と拒否を意味する。
実在の探求自体が実在の動きなのだ。
ある意味では、すべての探求は真の至福、実在の至福のためのものだ。
しかし探求ということで、私たちはマインドを超えた光としての、意識的存在の根本である真我を意味している。
この探求が終わることはけっしてない。
それと同時に、それ以外のすべての落ち着きのない切望が終わらなければならないのだ。
 実在、神、あるいはグルの探求は、真我の探求と同じだということを理解しなければならない。
ひとつが発見されると、すべては発見されるのだ。
「私は在る」と「神は在る」があなたのマインドの中で区別不可能となったとき、何かが起こる。
そのとき疑いの余地なく、神が存在するのはあなたが在るからであり、あなたが存在するのは神が在るからだと知るだろう。

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質問者
仏教の伝統ではニルヴァーニ、悟りを得た仏陀は、宇宙の自由を司っていると言われています。
彼は存在するすべてを知り、体験することができます。
彼は因果律連鎖によって自然界を制し、調停し、出来事の結果を変え、過去を消すことさえできるのです!
それでも世界は彼とともに在り、しかもそのなかで彼は自由なのです。

ニサルガダッタ・マハラジ
あなたが描写しているのは神だ。
もちろん、宇宙の在るところには、その片割れである神もまた存在するだろう。
しかし、私はそのどちらも超えているのだ。
ある王国が王を探していた。
彼らはふさわしい人を見つけだし、彼を王にした。
だが、彼はけっして変わっていない。
彼は王位の称号と権利、そして職務を与えられただけだ。
変わったのはただ彼の行動だけで、彼の本性は影響を受けてはいないのだ。
同様に、悟りを得た人も彼の意識の内容は根本的な変容を遂げる。
しかし、彼は惑わされない。
彼は不変なるものを知っているのだ。

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質問者
あなたはあなた自身に関するそのような並外れた表現を行います。
何があなたにそのようなことを言わせるのでしょう?
時間と空間を超えると言うことで、あなたは何を意味しているのでしょうか?

ニサルガダッタ・マハラジ
あなたが尋ね、そして答えがやってくる。
私は私自身を見守り、答えを見て、そこに矛盾がないことを見るのだ。
私が話していることが真実だということは明らかだ。
それはまったくシンプルなことだ。
あなたは、ただ私を信頼しなければならない。
つまり、私が話すことはまったく真剣だということだ。
すでに話したように、グル(師)は私に自己の本性と世界の本性を見せてくれた。
それを実現したため、私は世界と一つであり、しかもそれを超えているのだ。
私は欲望と恐れのすべてから自由になった。私が自由になるべきだと論証したのではない。
まったく予期せず、何の努力もなく、私は自由であることを見いだしたのだ。
この欲望と恐れからの自由は、それ以来、私とともにとどまっている。
もうひとつ見いだしたことは、私は何の努力をする必要もなく、何の遅れも軋轢もなしに、行為が思考にしたがうということだった。
私はまた、思考が自己充足するようになり、ものごとがすらすらと、正しい場所に落ち着いていくことも見いだしたのだ。
主な変化はマインドのなかだった。
それは不動で、沈黙し、素早く反応するが、反応を永続させなくなった。
自発性が生のあり方となり、真実は自然になり、自然さは真実となった。
何にもまして、生は無限の愛、幽玄で静穏な、すべての方角に輝き、すべてを抱擁し、すべてを興味深く、美しく、意味深くする幸運なものとなったのだ。

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質問者
聖人ほど苦しむ人は誰もいないでしょう。

ニサルガダッタ・マハラジ
彼らがあなたにそう言ったのかね?
それともあなたが自分からそう言うのだろうか?
聖人のような高徳な生き方の本質は、現在のこの瞬間の完全な受容と、起こるがままとの調和にあるのだ。
聖人はあるがままから変わってほしいとは望まない。
すべての要因を考慮した上で、それが不可避であることを彼は知っているのだ。
彼は必然的なものと親しくあり、それゆえ苦しむことがないのだ。
苦痛なら彼も知っているだろう。
だが、それが彼を打ちのめすことはない。
もし彼にできるならば、失われたバランスを必要なだけ回復するだろう。
あるいは、ものごとがそれ自体の流れを取るにまかせるだろう。

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質問者
私は真我実現のためにサマーディが必要なのです。

ニサルガダッタ・マハラジ
あなたはあなたに必要な真我実現のすべてを手にしている。
だが、それを信頼していないのだ。
勇気をもちなさい。
あなた自身を信頼しなさい。
行き、話し、行為しなさい。
それ自体が証明する機会を与えるがいい。
ほとんど気がつかないほどの真我の実現が起こるかもしれない。
だが、とにかくそれには確信が必要なのだ。
変わったにもかかわらず、それに気づかないでいる。
そのような劇的ではない場合のほうが、しばしば、もっとも信頼のおけるものなのだ。

質問者
人は自分が真我を実現したと信じたり、誤解したりすることができるのでしょうか?

ニサルガダッタ・マハラジ
もちろんだ。
「私は真我を実現した」という考えそのものが過ちだ。
自然な状態のなかには、「私はこれだ」、「私はあれば」といった考えはないのだ。

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質問者
彼らがある霊的体験をしたとき、別の問題が起こります。
彼らは体験が偶然のように来ては去っていき、永続しないと不平を言います。
キャンディーを一度手にしたら、いつまでもそれをしゃぶっていたいのです。

ニサルガダッタ・マハラジ
いかに高尚であっても、体験は実在のものではない。
体験はその本性からして、来ては去っていくものなのだ。
自己実現は獲得されるものではない。
それはもっと理解の本質に近いものだ。
ひとたびそれに到達すれば、けっして失われることはない。
その反対に、意識は変化し、流れ、瞬間から瞬間へと変容を通り抜けていく。
意識とその内容をとどめようとしてはならない。
意識にとどめれば、それは止まる。
洞察のひらめきと至福の爆発を永続させようと試みることは、それを維持しようとするものにとって破壊的になる。
来るものは去らなければならない。
永遠なるものは、去来するすべてのものの彼方にあるのだ。
すべての体験の根底へ、存在の感覚へと行きなさい。
無限の実在は存在と非存在の彼方にある。
何度も繰り返し試みることだ。

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ニサルガダッタ・マハラジ
ひとたびあなたが目的地に到達し、真の本性を知るならば、あなたの存在はすべてにとっての祝福となる。
あなたは知らないかもしれない。世界もまた知らないだろう。
だが、助けは広く行き渡るのだ。
世界のなかには、すべての政治家や慈善家を合わせたより以上の善を為している人びとがいる。
彼らは意図をもたず、知ることもないまま、光と平和を放っている。
他者が彼らの為した奇跡について話すと、彼らもまた驚きの念に打たれる。
それにもかかわらず、何ひとつ彼らのものとして受け取らず、誇りももたず、名声を望むこともない。
彼らには、ただ彼ら自身のために何かを欲望すること、他者を助ける喜びを求めることさえ不可能なのだ。
神が善であると知るゆえに、彼らはただ平和の内に在るのだ。

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質問者
あなたは目覚め、夢見、眠りの三つの状態を、私たちと同じように体験するのでしょうか、それとも異なるのでしょうか?

ニサルガダッタ・マハラジ
私にとって、三つの状態すべてが眠りなのだ。
私の目覚めの状態はそれらを超えている。
私があなたがたを見ると、あなたがたは皆、眠っているように見える。
私は気づいている。
なぜなら、私は何も想像しないからだ。
それは眠りの一種であるサマーディではない。
それはただマインドの影響を受けない、過去と未来から自由な状態だ。
あなたの場合、それは欲望と恐れ、記憶と期待に歪められている。
私の場合、それはありのままの正常な状態だ。
個人として在ることとは、眠っていることなのだ。

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ニサルガダッタ・マハラジ
在るためには、過去も未来も必要ない。


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ニサルガダッタ・マハラジ
一生話し続けた後の沈黙と、一生沈黙していた後の沈黙は同じ沈黙だ。

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ニサルガダッタ・マハラジ
もしあなたの注意深さが深く、揺るぎなく、つねに源を向いているなら、それは徐々に上昇し、突然それが源となるのだ。
マインドではなく、気づきに仕事をまかせなさい。マインドはこの仕事に適した道具ではないのだ。
永遠は永遠によってのみ到達できる。
あなたの身体とマインドはともに時間に支配されている。
ただ気づきだけが時間を超えている。それは今でさえ超えている。
気づきのなかで、あなたは事実に直面する。
実在は事実を好むのだ。

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ニサルガダッタ・マハラジ
私は光を見たり、声を聞いたり、神々に出会ったり、彼らと話をしたりという奇妙な体験を通り抜けてきた。
ひとたびグルが私に「あなたは至高の実在だ」と言ったとき以来、幻想や超越状態を体験することはなくなり、とても静かに、そしてシンプルになった。
私は欲望をもつことや知ろうとすることがだんだんなくなっていき、最後にはまったくの驚きとともに、「私は何も知らない。私は何も欲しくない」と言うまでに至ったのだ。

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質問者
あなたはいつも彼方へといき、超然とした孤独の必要性を強調します。
「正しい」や「間違い」という言葉はほとんど使いません。
なぜそうなのでしょうか?

ニサルガダッタ・マハラジ
自分自身であることが正しく、自分自身でないことが間違いだ。
それ以外はすべて条件づけだ。
行動の基盤を必要とするために、あなたは正しさと間違いを分離することに熱心なのだ。
あなたはいつも何かを追及している。
だが、個人的に動機づけられ、何らかの価値の尺度に基づき、ある結果を狙った行為は無為よりも一層悪い。
なぜならその結果はつねに苦いものだからだ。

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質問者
気づきと愛はひとつであり、同じものなのでしょうか?

ニサルガダッタ・マハラジ
もちろんだ。
気づきは動的で、愛は存在だ。
気づきとは行為のなかの愛なのだ。
マインドはそれ自体で無数の可能性を実現することができる。
だが、愛によって喚起されないかぎり、それらに価値はない。
愛は創造に先行する。
それなしでは、ただの混沌となってしまう。

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ニサルガダッタ・マハラジ
実在は不動のものだ。
それにもかかわらず、絶え間ない変化のなかにある。
それは力強い川のようなものだ。
それは流れていくが、しかも永遠にそこにある。
流れていくのは、川とその川岸ではなく、水だ。

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ニサルガダッタ・マハラジ
すべてを通じて同じ生命が流れ、あなたがその生命なのだということを、疑いを超えて知ったとき、あなたはすべてを自然に自発的に愛するだろう。

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ニサルガダッタ・マハラジ
多くの努力と苦行を終えてその野心を満たし、より高次の体験と行為を確保した人たちは、たいていの場合、彼らの地位を鋭敏に意識している。
彼らは人々を最低の未達成者から最高の達成者までに分類し、階級のなかに類別してしまう。
私にとっては皆が同等だ。
現れや表現のなかの違いはそこにあっても、それは問題ではないのだ。
金の装飾品の形が金そのものに影響を与えないように、人の本質も影響をうけることはない。
この同等の感覚が欠乏しているならば、それはつまり、実在には触れられていなかったということだ。
学者やヨーギは多くのことを知っているかもしれない。
だが自己が知られていないとき、単なる知識が何になるというのか?
それは間違いなく誤用されてしまうだろう。
知る者の知識なしには平和はありえないのだ。

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質問者 
ひとりの人の理解によって、世界を大きく変えることはできないでしょう。

ニサルガダッタ・マハラジ 
あなたが住む世界は深く影響を受けるだろう。それは健康で幸福な世界となるだろう。
それは光に放ち、通じあい、拡大し、広がっていくだろう。
真実のハートの力は計り知れないものなのだ。

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