とにかく全く当たり前の世界が観える。

ここでは、「とにかく全く当たり前の世界が観える。」 に関する記事を紹介しています。
今回は、セッションを受けられているストライクさんから頂いたご報告と無空の返信を、参考までにご紹介させて頂きます。

ストライクさま

感想ありがとうございました。

> 今回は、録音に失敗してしまったので、
> 記憶を辿り書きましたので、
> 思い出せる範囲となってしまいました。

はい、それで十分です。
ありがとうございます。
>
> 前回からの状況
>  全く普通の感じになってしまいました。
>  「今ここ」や「あるがまま」がシックリこないので、
>  「在るに在る」という感じがシックリするので
>  「在るに在る」でやっていたら、全く普通の感じになってしまった。

はい、在るは、不変、普遍であり、そう在るものは、普通な感じです。
真我(在る)の実現とは、真の意味での普通を実現すること。
普遍的にすべてを貫いているもの、すべてに行き渡っているもの、すべてに通じているものを実現すること
普通実現でもあります。
禅の十牛図の視点などでも、後半はより自然な姿、在り方へと進んでいきます。

参考:十牛図 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%89%9B%E5%9B%B3

その他、他の方への返信でも、何度かご紹介させて頂いていますが、

リンクさせて頂いているまるまるさんの「老子」の記事も参考になるのではないかと思います。

http://ameblo.jp/marumarusukkarakan/entry-11520241213.html

OSHOが老子について説明している一文をそのまま載せられていらっしゃいますので、

ここでも、それをご紹介させて頂きたいと思います。

**********

仏陀の精神性を見るのは簡単だ。ごく簡単だ。

それを見逃す方がどうかしている。

彼はそれほど桁外れだ。


だが、老子の精神性を見るのは難しい。

彼は実に当たり前だ。

まるであなた方と変わらない。

それを見るためには、

あなたは<理解>ということに熟達しなければなるまい。


仏陀がかたわらを通り過ぎる・・・あなたはたちまちそれを認めるだろう。

ひとりの卓越した人間が通り過ぎた。

彼はそのまわりに卓越した人間の魔力を持っている。

彼を見逃すのは難しい。ほとんど不可能だ。


だが、老子・・・ひょっとしたら、彼はあなたのお隣さんかもしれない。

あなたはずっと彼を見逃してきているのかもしれないのだ。

彼はそれほど当たり前だ。

彼はそれほど桁外れに当たり前だ。


そして、それがそのビューティフルなところだ。

当たり前でなくなるのは易しい。

ただ、努力が必要なだけ、練磨が必要なだけだ。

それは深い内的な訓練にすぎない。

あなたはごくごく洗練された、

何か完全に非地上的なものになれる。

しかし、当たり前であるということは、

本当は最も当たり前でないことだ。

何の努力も役立たない。

無努力性が必要だ。

何の稽古も役立たない。

無方法、無手段が役に立つ。

ただ理解すること・・・。


瞑想ですら、何の助けにもならない。

仏陀になるには瞑想が助けになるだろう。

老子になるには瞑想ですら無用の長物だ。

ただ理解すること。

ただ生をありのままに理解すること。

そして、それを勇気を持って生きること。

それから逃げ出さないこと。

それから隠れないこと。

それに直面すること。

それが何であれ、

良くても悪くても、

聖でも魔でも、

天国でも地獄でも。


老子であったり、あるいは老子を認識したりするのはとても難しい。

実際のところ、もし老子を認識できたなら、

あなたはすでに老子なのだ。

仏陀を認識するのに、仏陀である必要はない。

しかし、老子を認識するには、

あなたは老子である必要がある。

さもなければ、それは不可能だ。




そして、教えてあげよう

老子は最も深い

誰一人としてあそこまで行ってはいない

老子こそ最大の鍵だ

もし彼を理解したら

彼こそマスターキーだ

あなたは生や存在の中にある

あらゆる鍵を開けることができる

この”おいぼれ”はトータルだ

あなた方は老子の中に存在する

そして何千というブッダたちも・・・

彼はその両方なのだ

そして、もし彼を理解出来たら

それ以上理解されるべきことなど何もない

*************


また、シックリするという点からも、その正しさ(自然さ)が分かりますね。
(プロセス等において、そのときどきでシックリくるものが変わってくるということはあります。)
特別な感じがあるときは、シックリという感じとは違うのではないかと思います。

真の自己、在る、本当の自分、自分自身であることは、とても自然なことであり、
とてもシックリくるものでもあります。
そして、シックリくるものは、普通な感じがします。
(その他の質、感じもありますが。)

本質は、けっして特別な感じはしません。
それが特別なものであれば、それは本質ではなくなってしまいます。
本質は、普通な感じで、普通そのものとして実在しています。

>  歩く時も、自分が歩くと言うよりは、自分という入れ物が歩いており、
>  地面と自分の中のエネルギーは同じもので、
>  自分と言う入れ物の形だけが移動するようなそんな感覚で歩く練習をしいました。
>
>  前は、目で見ている現実に2重になって暗い世界が観えていた感じがあったのが
>  そう言う感じはしなくなってしまった。

あるがままのより普通で、より自然な姿が見えるようになってきた、
以前の見え方から再統合された感じかもしれませんね。

より進み、より自然になってくると、その方が特に必要とするものでない限り、
(それぞれのタイプ、特質等もありますが。)
いわゆる特別な感じは落ちていく、普通(自然)の中に溶けていく、吸収されていく、
統合されていく傾向にあるということが言えます。

(以前にもご紹介したかもしれませんが、

ニサルガダッタ・マハラジの「I AM THAT」にも、

【私は光を見たり、声を聞いたり、神々に出会ったり、彼らと話をしたりという奇妙な体験を通り抜けてきた。
ひとたびグルが私に「あなたは至高の実在だ」と言ったとき以来、幻想や超越状態を体験することはなくなり、
とても静かに、そしてシンプルになった。私は欲望をもつことや知ろうとすることがだんだんなくなっていき、
最後にはまったくの驚きとともに、「私は何も知らない。私は何も欲しくない」と言うまでに至ったのだ。】

とあります。)

逆に言えば、普通の中に、無限の特別性を無限に感じ取れるようになっていきます。
それは、それまでの相対的な特別性ではなく、絶対レベルの特別性です。
在るであることの実践を重ねていくことにより、存在がより自然に、より普通に、よりシンプルに
そして、よりクリアに、よりやわらかく、より深まっていくことで、それらが感じ取れるようになっていきます。
>
>  ただ、目の前にある世界が普通にあるように観えるだけのようになった。
>
>  ただ、自分が見ている世界と自分の世界には境界が存在しないような
>  感じがして来たような気がする。
>
>  自他の区別も前に比べて薄くなったような気がする。
>  どちらが優先かと言うよりは、どちらがよりスムーズに流れるかと言う感じで、
>  お先にどうぞという機会が増えてきた。
>
>  とにかく全く当たり前の世界が観える。
>
>  ただ、少し違和感というか、他人じゃないような感じがする。

素晴らしいですね。
在る(全体、ひとつであるもの)の質が、存在全体に、より浸透してきている感じですね。
>
>
> ストライク

ありがとうございました。

無空
【個人セッションに関してはこちらです。】
【お問い合わせ等はこちらからどうぞ。】

ランキングに参加しています。
よろしければ、クリック応援をお願いします。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
精神世界ラ
ンキング 人気ブログランキングへ
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック