何故だかわからないのですが、心の奥で喜んでいる気がしています。

ここでは、「何故だかわからないのですが、心の奥で喜んでいる気がしています。」 に関する記事を紹介しています。
今回は、お試しセッションを受けられたときめきまあまさんから頂いた感想と無空の返信を、参考までにご紹介させて頂きます。

ときめきまあまさま

感想ありがとうございました。

> > 無空様
> >
> > 昨日はお忙しいところ、たくさんお時間を頂き、誠にありがとうございました。
> >
> > 最後に時間がオーバしーてしまい、本当に申し訳ありませんでした。
> >
> > あれからですが、暫くはほっこらとした感じでしばらく温かさが続いていました。

いいですね。
> >
> > 夜は眠くて転寝をしながらそのまま寝てしまいましたが、夜中にはしっかり覚醒していたので、そのままゴロゴロしながら、なるべく意識に意識を向けていました。
> >
> > 朝から、相変わらずネガティブ方向のいつもの不安にさいなまれていましたが、まずは「大丈夫!」と自分に言って聞かせるようにして、ふと思いついたのですが、
> >
> > この思考も自分を守るために、こうやって健気にひたすら、自分のお役目としてコンタクトしてきているだけなんだ…と。

よい気づきですね。

立ち位置、視点等が変わってくると、そのような気づきも起こってきます。
> >
> > そう思ったら、まずは気づかなくてごめんなさい、許してください、愛しています、ありがとう、といつの間にか、ホ・オポノポノの言葉を唱えていました。
> >
> > そして、十分体験したので、金輪際受け取らない!と言っている自分がいました。
> >
> > その後も、不規則な波のようにやって来ますが、その度に自分に宣言して、四つの言葉を言ったり、感謝したり…。
> >
> > そして、まずは笑顔を自分で意識して表情を作り、幸せ、幸せ、と繰り返しお念仏のように唱えている自分がいて、大分静かな波に変ってきた気がします。

これまで実践されてきた様々なことが、ここに来ていかされていますね。

それらが習慣として身についている上で、実践する主体が個人からより在る(気づいている意識・真我・空・愛・全体)の方にシフトしてくると、

それらの実践もより実質的なものになっていきます。

(習慣として身についているものが、必要に応じて自然に起こってくるようになります。)

そして、さらに進むと、意図的な何かは特に必要なくなり(もし、必要なときには意図が自然に在るから起こってきます。)、

より自然体で、平和で、楽に、軽やかに、幸せに、ただ在れるようになってきます。
> >
> > 今あること、もの、何だか如何に、自分の勝手な色付けで、自分と人と物と、周りの様々なものまで粗末にして、足りない足りないと、不足の否定でぶつけてきていたか…。
> >
> > 自分の持っているバックが糸がほつれていることから、急に針と糸を持って繕い、バックにごめんなさい、と謝っていて、これからはもっと大事にするから…と言っている自分に驚きました。
> >
> > そうしたら、何だか、バックもそうですが、自分の心の奥の方がほっこらして、何となく喜んでいる感じがしました。
> >
> > 私のサロンに到着してから、いつも何故だか嫌で嫌でそれでも、掃除をしなきゃ、磨かないと閑古鳥になる、成功しない、繁盛しない、と言う思いからやっていた掃除が、
> >
> > 今までごめんなさい、ここにこのサロンがあるから、私の昼間の居場所がある…。
> >
> > なのに、こんなこと始めなければ、サロンを手に入れなければ、こんなに苦しむことなかったのに…という自分の後悔と自己嫌悪、自己否定の気持ちでサロンの存在を猛烈に否定していたことを
> >
> > 改めて気づいてはいたけれど、自分自身でようやく認めた…受け入れた?気がしました。

認める、受け入れる、あるいは、肯定することができれば、そこから変容が促されていきます。
> >
> > そうしたら、また今朝と同じようにオ・ホノポノなどの繰り返しをしながら、謝って、改めて感謝している自分が自然に出てきました…。

それが(在る、または、意識から)起こってくる、あるいは、(在る。または、意識から)起こっていく、ということです。
> >
> > 気づけば、今までオ・ホポノポノにしろ、感謝の言葉にしろ、こうすればよくなる、ああすれば改善する、という様々な方法について、いつも『良くなりたいから、こうなりたいから、これらをやる!』
> >
> > という自分が、まだまだ根っこにしっかりいて、これで全て行っていれば、正に、否定から始まり、執着と期待でこれさえすれば、きっとよくなるはず!とやっていたからそれがそのまま実現していた…と。
> >
> > 今までは頭で分かっていたつもりが、全くわからずやり続けていた!ということに少しですが。気がついた感じがしました。

根っこ、元がどのようなものなのか、あるいは、どう在るか、ということがとても大切ですね。
> >
> > 何よりも、昨日より、何だか少しですが、自分にも、物にも優しい気がしています。
> >
> > それが何故だかわからないのですが、心の奥で喜んでいる気がしています。

とてもよい感じですね。

心の奥というのは、本質のところですね。

そして、優しい、あたたかい、丁寧などは、本質で在るとき、

気づいている意識、在るであるときに感じられるもの、起こってくるものですね。
> >
> > 次回のセッションまでとても楽しみになりました。
> >
> > 改めてどうぞよろしくお願いいたします。

こちらこそよろしくお願いいたします。
> >
> > それから質問があります。
> >
> > ①瞑想は一日何分、何回とかありますか?

一切ありません。

日常の中で、無理のない範囲で、気づいたら、在る、または、意識に戻ってください。

それに注意を向けてください。

可能であれば、それそのものとして在ってください。

そのことを自覚してください。

戻るのはほんの一瞬でもかまいません。

頑張って留まろうとしなくても結構です。

(頑張りすぎるとマインドが強くなることがあります。

また、自然に留まろうが起これば、そのままにしてください。)

お忙しいときは、1日1回でも、数回でも構いません。

また、何十回、何百回戻っても構いません。

意識を向けても感じられないときは、それでもかまいません。

起こってくる思考、感情等が強く、なかなか戻れないときは、

無理をせず、ただそのままでいてください。

起こっている思考、感情に、ただ(判断等せず。もし判断が起こったのなら

それもそのままにして。そこにさらに判断を加えることなく。)気づいていてください。
> >
> > ②瞑想は、具体的にどのように行えばよいですか?
> >
> > 今のところ、
> >
> > 自分の意識に意識する、
> >
> > 自分のハートに意識を集中する
> >
> > をやってみてはいるのですが…何だか記憶がおぼろげになってきていて申し訳ありません。
> >
> > もう一度詳しく教えてください。

意識を意識する、です。

ハートに関しては、意識・在る・真我=ハートとご理解ください。

ただ、身体的なハートの部分で、意識・在るが感じやすいということでしたら、

そこからスタートでもかまいません。

(「在る」に関しては、意識を意識することを実践しながら、また確認していきましょう。)

また、これまで様々な実践がされてこられてきて、習慣になっているかもしれませんので

補足させて頂きますと、

“ただ”意識を意識する。

“ただ”意識することが大切です。

自然な思いや期待、目標はあってもかまいませんが、

実践のときは、そこから離れ、それを忘れ、ただ実践することが大切です。

さらには、すでにそうである(本当の自分・真我・愛そのもの・幸せそのもの・平和そのもの)であるという感じで

実践されるのもよろしいですね。

なぜなら、真実はそうですから。

無空庵の実践は、実践即実現です。

1回1回、毎回毎回が完結していて、かつ、それらが積み重ねっていき、より大きな変容、シフトを促していきます。

ただ一瞬一瞬の実現を、シンプルに何度も繰り返していくだけです。

その繰り返しにより、自己理解も深まり(本当の自分は在るである。愛そのもの、幸せそのもの、平和そのものである等の

理解。)、日常も、より穏やかなものとなっていくでしょう。

より自然で、よりシンプルで、より軽やかで、より楽なものとなっていくでしょう。

幸せであること、平和であることがより恒常的なものとなっていくでしょう。
> >
> > ③ほかの瞑想などは、やる必要がなくなりますか?それとも他の事もやれば、さらに相乗効果がありますか?

どのような瞑想をされていらっしゃるか、すべてお伺いしたわけではありませんので、また次回確認しましょう。

ただ無理なくできるのであれば、できるだけ実践もシンプルであった方がいいですね。

(なかなかひとつのことだけをシンプルにできない場合は、いろいろやってみて、徐々にシンプルになっていく、

というプロセスもあります。)

様々な実践方法や瞑想等があると思いますが、在るに戻る、意識を意識をすることは、

もっとも直接的で、もっともトータルで、最も自然で無理のない真我(変わらない幸せ・平和・無限の愛)実現の方法です。

(ただ、現れ的に具体的なひとつの問題を解決するには、それに特化したより適切で具体的な方法というのはありますので、

何か現れ的に具体的な問題を解決したい場合は、現れレベルで考えたり、対処したりすることは大切ですし、必要です。)

参考までに、ラマナ・マハルシの本から、真我(意識・在る)に直接意識を向ける方法と、瞑想等に関して書かれてある箇所を

いくつか抜粋し、ご紹介させて頂きます。

(無空庵の実践を瞑想と呼んで頂いてもかまいませんが、それは、基本的には、真我を見つけるため、真我に辿りつくための瞑想法ではなく

真我に直接意識を向けるものであるということをご理解ください。)


【彼は伝統的瞑想法やヨーガが、瞑想する主体と瞑想の対象である客体の存在を必要とすること、

そしてそのような主体ー客体の関係性が「私」という想念を消し去るどころか力づけてしまうことを指摘した。

彼の見解では、そのような修練は心を効果的に静かにさせ、至福の体験さえもたらすかもしれないが、

けっして真我の実現の成就をもたらすことはない。

なぜなら、「私」という想念は分離もされず、そのアイデンティティは奪われてもいないからだ。】


【ヴィチャーラ(探求)においては対象がなく、主体だけがある。ヴィチャーラと瞑想が異なるのはこのためである。

ディヤーナは対象への集中である。それは思考を脇道にそらさず、ひとつの想念に固定させるという目的を果たす。

そのひとつの想念さえも真我の前には消え去らなければならない。

努力なしに、私は在るにとどまることがヴィチャーラであり、それが自然で自発的になったときが、真我の実現なのである。】

無空補足:ディヤーナというのが瞑想です(瞑想にも様々あると思います。ここでは、伝統的な瞑想について述べられています。)
無空庵の実践は、在るに戻る、在るそのものである、意識を意識する、意識そのものであるということで、対象=主体、対象が主体であり、
主体だけがあるという実践方法です。
(はじめは、個人が在るを意識するという感じになる場合もありますが、個人が在るを意識することにより、在るとつながり、
在るそのものとひとつになっていきます。
「する」が「在る」へとシフトしていきます。
真の主体だけが残ります。)

【瞑想する者と真我探求する者の目的は同じである。ひとりは瞑想を通して静寂に到達し、もうひとりは探求を通して到達する。

ひとりは何かに到達しようと努力する。もうひとりは到達しようと努力しているその人を見だそうとする。

前者はより時間がかかる。それでも、最終的には真我に到達するのである。】

その他、フーマンの本から参考までに。

【瞑想による内的境地は、必ずしも「自己理解」をもたらすものではない。

時には、それをもたらす場合もある。

しかし大部分は、それが実際には起こっていない。 】

> > お忙しいところ誠に申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いいたします。
> >
> > ときめきまあま

ありがとうございました。

無空
【個人セッションに関してはこちらです。】
【お問い合わせ等はこちらからどうぞ。】

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