「考えなくっても食べられますよ。考えなくったって家には帰れますよね」

ここでは、「「考えなくっても食べられますよ。考えなくったって家には帰れますよね」」 に関する記事を紹介しています。
今回は、セッションを受けられているストライクさんから頂いたご報告と無空の返信を、参考までにご紹介させて頂きます。

ストライクさま

ご報告ありがとうございました。

> 先週からの状況
>  内側から見るという練習をしているのですが、
>  たまに、意識を集中している位置が変わっているだけ
>  (見るという感じではなくて意識を集中していいるだけ)
>  のことが有り、これじゃいけないなと思って気がついて
>  直したりしています。

集中そのものになっているという感じなのかもしれませんね。
それはそれで素晴らしい状態、在り方ではありますが、
(集中ということに限らず、「そのもの」という在り方が素晴らしいです。)
そこにやはり気づいていること、自覚、自己認識があるといいですので、
書かれてあるように、気づいたら直す(気づいたら戻る)というように
されるといいですね。
>
>  観る感覚も、
>  目の後ろから観てみたり、
>  胸の後ろから観てみたり、
>  ヘソの下の所から観てみたりしてみています。
>  場所によって感じがまるで違うように感じます。
>  体全体の後ろ側から観るという感じでも感じが違います。

視点、観る位置が変わると、感じ方も変わってきます。
多様性が生まれる源でもある在るは、無限そのものでもあり、様々な感じられ方があります。
>
>  ただ、体全体の後ろから観る感じが一番抵抗が少なく
>  自然な感じがします。
>  しかし、それが合っているのか(正解なのか)が、解らない
>  ので、どうしたものかと思っています。

どれが正解というものはなく、在るには無限の在り方があります。
そういう意味では、すべてが正解という言い方もできます。
また、ただひとつの観方を正解とするのは、とても限定された視点であるという
言い方もできます。
(必要に応じて、ひとつの観方からスタートするために、そのように言われることはあり得ます。)
そのような中、無空庵では、はじめからできるだけ実現したい在る(真我・愛・真実)と
同じように在って頂くことをお勧めしていますので、基本には、「自然」、
「できるだけ自然であること」があります。
その上で、お一人お一人のそのときそのときに合った在り方、実践を行っていただいています。
>
>  目の奥から観ると、どうしても視覚的に「今在る世界」を観ようとしてしまい、
>  目の奥以外から見る場合は、「今在る世界」を観じようとしていると言うような
>  違いが有る気がします。

そのような違いを感じられることも、在るには様々な在り方があるということを知ることができる、
そして、在るとそこからの現れとの関係性等を知ることができる等の点でいいですね。
>
>  前を目の内側から見たままで、顔だけ右や左に動かして見たり
>  意識では前を観たまま、顔だけずらす練習もして見ましたがなかなか難しいです。
>  どうしても視線の方が優先してきて、意識も目で見ている方にだんだん一緒になってくる。
>  というように色々実験をしながらやってみました。

今様々な実験が「自然」に起こっているようですね。
基本の実践と、そのときどきで自然に起こってくるものを大切にしながら進んでいってください。
過程としては様々にありますが、ある程度のスパンで見ると、正しく進めているかどうかの目安としては、
より自然になっているか、よりシンプルになっているか、より軽やかになっているか、より楽になっているか等で
見ることができます。
>
>  電車の中での瞑想の方は、ほとんど時間を感じない状態が続いています。

とてもいいですね。

>  瞑想していると、
>  だんだんアゴが下がってくるのに気がついて、位置を直す。
>  アゴが下がってきているなと意識しているので、眠っているわけでは無い。
>  アゴが下がってきたなと気がついている以外は何も感じていないです。

とても純粋な状態、純粋な在り方、気づきそのものという感じですね。

>  在るという感覚が自覚できているかと言うと、自覚はできていない感じです。

そのときの状態を思い出して、あるいは、その状態に意識を向けてみて、
在るという感覚、あるいは、それをも含んだ在るという事実を自覚してみましょう。
在るという感覚、事実、在り方を何度も自覚することにより、
日常の中で、自然にその状態、その純粋な在り方で在るときに、

(思考が起こってなく、他の何にも焦点が当たっていないとき、
他の何にも意識が向いていないとき。
━もちろん、思考が起こっていても、その源である
在るは在り、それに気づくことはできます。━)

そのことに気づきやすくなっていきます。

そしてそれが進んでいくと、「ずっとそうであった」
「はじめからそうであった」
「すでにそうであった」等の気づき、理解が起こってきたり、
その意味が分かるようになってきます。

それ(在る・真我・気づいている意識・愛・空・全体)は、
自我、思考、感情をはじめ、様々な出来事、現象等が起こる日常の中でも、
ベース、背景として常に在り、
あまりに当たり前で、あまりに自然で普通なため

(ある意味、地味。
五感、認識、意識の粗雑な領域、あるいは、通常の意識レベルにとっては地味であり、
そのより精妙なレベル、よりやわらかいレベル、
━五感に関して━より未分化のレベル、よりひとつであるレベル、
あるいは、五感を超えたレベル、その認識領域においては、
自然、普通感覚もありながら、同時に、それはとても素晴らしいものでもあります。)、

現れも含めた全体の中で、なかなかその本質であるそれ(在る・真我・気づいている意識・空・愛・全体)、
それそのものを純粋に捉えること、感じることができにくい状態にあるとも言えます。


>  アゴが下がってきてくっついたら気がついて直して、瞑想を続ける。
>  1時間くらいすると、降りる駅が近くになるので瞑想を止めます。
>  隣の人の肩が当たったりすると、思考が出てきて中断されてしまうが、
>  すぐ瞑想に戻り続けられています。

とてもいいですね。
>
>  歩きながらも練習しています。
>  「在る」世界と目の前の世界を同時に観ているような感じで歩いています。
>  瞑想の時は、基本的に目は空いてませんので、歩いている時は感じは違います。

はい、在る(源としての在る)だけに焦点が当たっているときと、
在るとその現れの両方が意識の中にあるときとでは、

(在るは、意識━気づき━そのものでもありますが、その意識は、それ自身とその現れの両方を
意識することができます。その意識の中、それ自身の中にすべてを包むことができます。
そこから、在る・意識から現れた現れもまた、やはり在る・意識であるということが分かるかも
しれません。
それは、すべてを貫き、すべてに浸透し、すべてそのもの、ただひとつであるもの、
ただひとつであるすべてとして在ります。)

感じが違うのはとても自然なことですね。
>
>  最近は、ほとんど考えなくなってきています。
>  仕事の時は考えますが、日常生活ではほとんど考えなくなってきています。
>  たまに何にか感じた時に、なんでそう感じるのかなと思うことはありますが
>  その他は考えないです。

とても静かで、とてもシンプルな感じですね。
>
>  逆に考えないってどうするのと聞かれることが有ります。
>  「だって考えないとご飯も食べられないでしょ」と言われるんですが、
>  「考えなくっても食べられますよ。考えなくったって家には帰れますよね」
>  その人に言わせると、考えないと帰れないと言うんですね。

考えずとも何かができるというのは、習慣の力とも言えますし、
さらに深くは、在るから起こっている、起こってくる、という視点、理解があると、
あえて意識せずとも、ご飯を食べたり、家に帰ることができるということが
分かるでしょう。

(ただ在る、無為であるから、何もできない、何もしないということではない
ということも同じです。
真にただ在れば、真の無為であれば、そこから自然に必要な行動等は起こっていきます。)

また、「ホ・オポノポノ」の本だったかもしれませんが、
科学的な実験により、思考よりも先に、動作を起こすように脳が反応している、
動き出している、というようなことが分かったということ、
別の言い方をすれば、思考は後付けであるとも言えるような内容があったと思います。
>
>  考えないようにしているので、ストレスも起こってこないですね。
>  考えるってどういうことかな?
>  と言うようなことは考えますが、その他はほとんど考えません。
>
>  前は朝起きた時に、よく考えたんですが、今は考えないようにしています。

そのうち、考えないようにするということも考えなくなるでしょう。
>
>  最近、夢の中で「何考えてんの!」と言いながら目が覚めることが結構あります。
>  夢の中で「そんな馬鹿な!」と言って起きちゃうようなことが
>  よく有るようになってきました。
>  前はそんなことはなかったのですが、
>  最近は、「何馬鹿なこと言ってるの」と言って目を覚ますのですが、
>  起きた瞬間それがなんだったのかは忘れている。
>  と言うようなことが良くあります。

起きていて、気づきがよりしっかりしているときは、
もう思考がそれほど多く起こらなくなってきていらっしゃいますので、
睡眠中、よりリラックスし、気づきがある意味、よりゆるんでいるときに、
夢と認識できるまで浮上してくるものがあると見ることができます。

(起きているときは、思考が起こってこないか、もしくは、思考と認識できる前に
消えている、より精妙なレベル、あるいは、無意識レベルで消えている、という
感じかもしれませんね。)

参考までにという感じですが、

ラマナ・マハルシ「不滅の意識」より

【ジニャーニはエゴをその源において粉砕する。
無知な人にとってのように、彼にとってもまた、エゴは、本性すなわちブラーブダに促されて再三立ち現れてくる。
無知な人にもジニャーニにもエゴは発生するが、この相違を伴っている。
すなわち無知な人のエゴは、その源についてまったく無知であり、夢と目覚めた状態において、その深い眠りに気づいていない。
他方、ジニャーニのエゴが生ずるとき、彼はつねにその源に焦点を保つことによって、このエゴに伴う超越的体験を享受する。
彼のエゴは危険ではないーそれは燃えたローブの灰の輪郭(残骸)だけであり、形は持っているが効力はない。
たえずわれわれの源に焦点を保つことによって、エゴは溶解される。】

ありがとうございました。

無空
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