生きていることというのは本当に大きなことですね

ここでは、「生きていることというのは本当に大きなことですね」 に関する記事を紹介しています。
今回は、セッションを受けられている青さんから頂いた感想と無空の返信を、
参考までにご紹介させて頂きます。

青さん

感想ありがとうございました。

> 無空さん
>
> 青は正直です
>
> 青は隠し事が本当に出来ません
>
> 隠されていることまで
>
> ほじくりだして来る勢いで生きております

「在る」(真我・愛)は、青さんのブログタイトルのように、

「スッカラカ~ンと♪いつも青空」 のようなものでもあります。

また、「在る」(真我・愛)は、「開き」そのもの、「開いている」そのものでもあり、

その質が、青さんの中で強く働いているのかもしれませんね。
>
>
>
> 浄化というのがどのように現れてきても
>
> その温和さで
>
> 計り知れない
>
> この大きな愛のままに
>
> いつもありがとうございます
>
>
>
> この大きさは
>
> 無限ですね
>
> 無限に面倒をみられています
>
> その面倒は愛という名のもとに^^ですね

はい、それが愛そのものである「在る」の在り方です。
>
>
>
>
> さて
>
> 始めの共鳴では
>
> 35分に待ち合わせておりました~~友人たちとの
>
> 約束のことで興奮状態のままでした^^

セッション後すぐの時間ですね^^
>
>
> 状態には関係なく「在る」ですね(^0^)

はい(^o^)
>
>
> アイコンタクトは
>
> 幽玄でした
>
> 「その美」は言い表す言葉はありません

マハラジも「幽玄」という表現をしていたところがありましたね。

ニサルガダッタ・マハラジ「I AM THAT」より

『グル(師)は私に自己の本性と世界の本性を見せてくれた。
それを実現したため、私は世界と一つであり、しかもそれを超えているのだ。

私は欲望と恐れのすべてから自由になった。
私が自由になるべきだと論証したのではない。
まったく予期せず、何の努力もなく、私は自由であることを見いだしたのだ。
この欲望と恐れからの自由は、それ以来、私とともにとどまっている。

もうひとつ見いだしたことは、私は何の努力をする必要もなく、
何の遅れも軋轢もなしに、行為が思考にしたがうということだった。

私はまた、思考が自己充足するようになり、
ものごとがすらすらと、正しい場所に落ち着いていくことも見いだしたのだ。

主な変化はマインドのなかだった。
それは不動で、沈黙し、素早く反応するが、反応を永続させなくなった。

自発性が生のあり方となり、真実は自然になり、自然さは真実となった。

何にもまして、生は無限の愛、幽玄で静穏な、すべての方角に輝き、
すべてを抱擁し、すべてを興味深く、美しく、意味深くする幸運なものとなったのだ。』

>
>
> 瞑想では
>
> 愛の愛による誘導瞑想でした
>
> その先は
>
> 青自身が見えていない未来
>
> その希望
>
> その望みという名の
>
> 実現可能な世界のひとつ手前を
>
> その爽快感の中で見ていたように思いました

必要なことが起こっていたようですね。
>
>
> 人はその本当の望みを
>
> 知っているのでしょうか
>
> 青自身が
>
> 始めの頃より「なぜこの肉体を持って
>
> この世にいますか?」など
>
> なかなかにしつこい疑問なんです~~

究極的には、「ただそうである」ですが、

個々それぞれ、またそのときそのときで、

(そのときの状態や状況、立ち位置、視点、理解の深さ等により)

無限の答えがあるとも言えます。

一例として

源としての在ると、その現れという視点からは、

在る(の素晴らしさ等)を体験を通して知ること、

在るの表現、実感、

その無限の可能性の実現、

等をそこに見ることができますね。
>
>
> まだまだ
>
> すっきりと
>
> ぴったりと
>
> 真我の実現は実感してないといったところでしょうか~

ひとつのポイントとして。

ニサルガダッタ・マハラジ「I AM THAT 私は在る」より

『ほとんど気がつかないほどの真我の実現が起こるかもしれない。
だが、とにかくそれには確信が必要なのだ。
変わったにもかかわらず、それに気づかないでいる。
そのような劇的ではない場合のほうが、
しばしば、もっとも信頼におけるものなのだ。』

無空庵では、気づいたら変わっていた、ということがよく起こります。
そのような変容、真我の実現は、とても信頼できるものです。
それは、日々、日常を生きている中で、とても自然に起こっていきます。

(そのゆえ、ご本人がそれに気づかない場合や、
気づかないゆえに実感が薄い場合もあります。
それを確認、自覚、確信できるように、セッションでご報告を頂いたり、
共鳴を通して、確認等を行っていきます。
そして、その確認、自覚、確信により、それはより確かなものとなります。

━実在が、より実在するようになります。
実在も気づかれなければ、認識されなければ、
あるいは、それに対する真の理解がなければ、ある意味、無いに等しいとも言えます。
(気づかれていなくても、真の理解がなくても、実在に支えられ、包まれ、
大きな恩恵を常に受けていることもまた、確かなことではありますが。)
それは、気づかれるべく常にそこに在り、
あるいは、自分自身(真の自己)として実在、常在していて、
気づかれるそ可能性はいつもある状態であるとは言えますが、
焦点がそこに的確に当たっていないならば、
あるいは、それに対する真の理解がないならば、
それはあるレベルでは活性化されておらず、
潜在している状態、眠っている状態とも言えるかもしません。━

また、継続のセッションということで言えば、
確認により、在り方がより確かなものとなり、
今度は、その確かな在り方を足場として、
さらなる深まりへと進んでいくことができます。
そういう意味で、確認、確信というのは、とても大切です。)

真の変容や真我の実現も、それくらいとても自然なものとなっていて、
それは、けっして過ぎ去ったり、消え去ったりするものではありません。
そこには、それをとても素晴らしいものであると同時に、
とても自然で、とても普通で当たり前のものとして受け入れている
成熟したマインド(ハートとマインド)、
とても落ち着いたマインド(ハートとマインド)があります。

また、変容や真我実現が起こると、それはとても自然なものとなっているので、
「ずっと前からそうだった」という感覚になることもあります。
(以前の状態、在り方がなかなか思い出せなかったり、
本当にそうだったのか、あいまいになったりすることもあります。)
別の視点からは、「すでにそうであった」ことを思い出す、再認識する、
(初認識、初自覚とも言えますが。)とも言えます。
本質部分はまさに変わっていないとも言えますが、現れを含めた存在全体は、
大きな変容を遂げています。


その他のポイントして、まだすっきり、ぴったりしていないということは、
より的確な在り方、立ち位置に立てる可能性が十分に残されている、
ということでもあります。

「在る」(その本性、在り方等)をより深く、よりトータルに知ることで、
在り方もより的確になり、また、より大きく、よりトータルになり、
お持ちの疑問も解消されていくでしょう。

>
>
> いえいえ
>
> ここまででも十分にその理解は進み
>
> それを生きるところではありますが。。
>
> きっと業が深いのか。。
>
> 何か大きな理解が抜けているような
>
> とっても大事な部分が(メインデッシュのようなもの)
>
> 抜けているような気持ちでいます

在るの立ち位置に在れば、「なぜ」は起こりません。

(「なぜ」もまた、究極的には、在るから起こっているとも言えますが、

在るは、それ自身から起こったすべてのものから自由でもあり、

「なぜ」を所有することも、「なぜ」を引きずることも、

「なぜ」にひっかかることも、「なぜ」に悩まされることもありません。

在るは、それ自身から起こったものから、ある意味、まったく影響を受けません。)

また、別の視点からは、(真の)「なぜ」を通して、存在全体の成熟も進んでいくでしょう。

在るの無限の可能性が開かれ、実現されていくでしょう。

現れの世界も、より豊かなものとなるでしょう。
>
>
>
>
> ハートの共鳴では
>
> 表現できません
>
>
> 立場を変えても
>
> 引き続き表現不可能なままでした
>
> 立場なし・ニュートラルでは
>
>
> あまりに大きくて
>
> 無限です
>
> その愛は
>
> このちっぽけな頭では理解することは出来ないです
>
>
> または
>
> この理解は
>
> 決して言葉では表現出来ないです
>
> またはこの味わいも一言では言い表すことは出来ません
>
>
>
>
> 生きていることというのは
>
> 本当に大きなことですね

はい、そこに含まれているもの、

そこで今まさに実現されているものの大きさ、深さ、奥行き、

そして、それ自体が無限の可能性そのものでもあること、

もちろん、このような表現では表しきれるようなものではありません。

それは、とてもとても大きなものです。

それは、どこまでも無限に大きく感じ取ることができます。

その度合いは、感じ取るものの立ち位置、在り方、理解の深さ等によります。

(同時に、感じ取る者は存在せず、体験、認識がだけがあるとも言えますが。)

感じ取るもの、感じ取られるものは、ひとつであり、

感じ取られるものが無限なのは、感じ取るものが無限だからです。

ただひとつであるものだけが在ります。

それは、無限そのものでもある在る(愛・真我)です。


>
>
>
>
>
> どうもありがとうございました
>
>
> PS
>
> 何度も中座しての観想なので
>
> 書きたいことがグラグラしておりますう
>
>
>
> 「真我実現の実感がありません」というところなどは
>
> 何か大きな浄化もまだ出てくるかもしれないなあというのと
>
> まだまだ大きな楽しみが出てくるなあ~という混在した心持ちなんです
>
>
> 今日の瞑想は
>
> 楽しかったです
>
>
> そのいのちは
>
> 一滴であり
>
> その大海ですねえ
>
>
>
>
> どうもありがとうございました
>
>
>
>
>
>
>
>
>
>
>
> 青

ありがとうございました。

無空
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