真実は、美です。

ここでは、「真実は、美です。」 に関する記事を紹介しています。
今回はセッションを受けれられているNさんから頂いた感想と無空の返信を、参考までにご紹介させて頂きます。

Nさま

感想ありがとうございました。

> > 無空様
> >
> > こんにちは。Nです。感想を送らせていただきます。
> >
> > 2014,3.17.(2010年11月8日より254回目)
> >
> > セッション:だいたい落ち着いていました。
> >
> > セッションで、「誰も、何の考え・観念・思想も持っていない(無観念説)」「マ
> > インド(・知性・知的思考・私)は、何が真理で何が非真理かを判別する能力を
> > 持っていない(マインド無能力説)」「悟りなどどうでもよい(誰がかまうもんか)」
> > という3つの私の観念を述べ、更に「ただ、問題は、今も苦しみは終わっていな
> > い」とも述べました。
> > その苦しみとは何なのか?-と考え始めたら、「そんなことどうでもよい」という解答に至りました。

苦しみを問題視することから(少なくとも理論的には)解放されましたね。
状況、状態はあっても、それを問題視する心が、ある意味、さらなる苦しみを生み出すと言えます。
そして、同時に、その問題視する心が、問題を解決の方向へと向かわせる原動力になるとも言えますが、
丁寧に見ていくと、結局最後は、問題視している心(マインド・そのマインドと同一化していること)自体が
問題であったということに気づきます。

> > 思考はどんな正解にも至らないと考えるからです。
> > また、「苦しみがある」という考えは私の考えではないし、「その苦しみは何なのか」と問うているのはマインド(知的思考)で、
> > 知的思考には真理・真実を判断する能力はないので、無駄な思考だからです。

3つの観念(これもただ頭で考えただけのものでなく、体験、実感に基づいた現時点でのご自身の結論、あるいは、洞察ということができますね。)、
をそのまま貫くなら、そのような結論になりますね。
より一貫性が出てきていますね。
よりクリアになってくると、そのようにそれまで、ある意味、同一化していて気づけなったところにも、
意識の光を当てることができるようになってきます。
(あるいは、意識が光が自然にあたるようになってきます。それが起こるようになってきます。)
> >
> > 更に、「苦しみがあるとして、あって何が悪いのか?-何も問題はない」。

それが「誰がかまうもんか」でもありますし、
無空庵でもよく言っている「(それは、あってもなくて、)どちらでもよい」という在り方ですね。

> > 今までは、苦しみを無くしたい、悟りたい、という欲求・観念・思い込みがありましたが、それがそもそも苦しみの元なのだと悟りました。

真の解決(悟り)は、ある意味、はじめマインドが考える角度とは、違うところからやってきますね。

> > 「苦しみOK、悟らなくてOK、悟ってもOK、そのまんまでOK、在るがままでOK」。
> > これが今の私の結論です。

今あるすべてをそのまままるごとを肯定できると、平和で在れますね。
それが、在るの在り方であり、また、成熟したマインドとハートの在り方です。
(状況によっては、必ずしも、現れ的な意味での肯定は難しい場合もありますので、
そのことにただ気づいている、気づいた上で、次の瞬間起こってくる、現れ的な肯定、否定等にも
ただ気づいている、という在り方が、在るのあるがまま、起こるがままの在り方です。)

同じようなことを前述しましたが、苦しみを無くしたい、悟りたいという思いは、そのような在り方に至るため、
あるいは、そのような在り方に気づくための原動力になるとも言えます。
「したい」、「する」を徹底して行っていくことで、それが落ちていく、
あるいは、それが起こってきても、それにとらわれないようになっていきます(気づき方、気づく時期等はそれぞれですが。)
さらには、以前にも書いたことがあったと思いますが、その「する」(「する」の実践)が「在る」に直接つながるもの、
「在るそのもの」となるものであれば(「在る」に意識を向ける等)、より効果的であると言えます。

> > 周りの環境、人間関係、自分の心の状態、すべて認める、許す。それこそが「慈愛」であり、「至福」であり、
> > それによって「心の平和」が維持される。それを悟りと言っても良い。
> > 何の観念、考え、思想も必要ない。

在るですね。
そして、それが在るが浸透したマインド、変容、成熟したマインド、そして成熟したハートの自然な状態、自然な在り方です。
今回のセッションでも、かなりよいところまで詰められている(体験、経験、実感を伴った洞察)とお話しさせて頂きましたが、
そこに、ご自身の体験、実感等を通し、知的にも至られたということは、素晴らしいですね。
その過程で、純化、柔化、洗練等されながらきたマインドも、現時点でのひとつの結論を得たことにより、より落ち着くことができるようになっていくでしょう。

> > ラメッシも、「どんな聖者・賢者が言ったことも観念である」と言っていますが(「誰がかまうもんか」153p)、

在るから、あるがままにそのまま言葉が起こってくることはありますが、それは言葉を通して表現される以上、
受け取る方にとっては観念になってしまいやすいですね。
マインドの自然な傾向により、どうしてもそのようにつかんでしまいがちです。
そのような意味でも、それ(在る、在るの在り方、在るの無限の在り方)を伝える方法、
受け手のマインドレベルだけではない存在全体の自然な変容と促す方法、
あるいは、それを通し、ご自身で気づいてもらう方法は、
言葉よりも、沈黙(沈黙の共鳴)の方がより直接的で、よりトータルで、より適切である、ということが言えます。

> > すべての聖者・すべての聖典も含めて、
> > すべての教えは観念でありフィクションであり仮説であり洗脳であって、それらすべてを捨て去る、脱洗脳することが自由、心の平和につながると私は信じています。

それは、ある意味、起こってくる(Nさんの言葉で言えば、どこからかやってくる)マインド、
教え、聖典をつかんでしまうマインドの自然な傾向から自由になる、ということでもありますね。
それは、ニサルガダッタ・マハラジも「よく調べてみなさい」というようなことを言っていたと思いますが、
今回のNさんのように、体験、実感を通した深い洞察、緻密で洗練された考察により、可能です。

また、すべての聖者・すべての聖典も含めて、すべての教えは、言葉を通して伝わってくる実感の方、
姿かたち、意味内容ではなく、本質的な響きの方を大切にされるのならよいと思いますが、
(それは、それを感じられているご本人の実感であり、真実と言えます。)
言葉にとらわれると、逆に不自由になってしまうことがありますね。
(覚者の言葉等が、ときには、様々なところに注意が向き、うろうろしてして落ち着かない傾向があるマインドを方向付け、
あるいは、ひとつところにとどめ、ある程度のところまで進む指針にもなり、最終的には、その言葉を超えて、
あるいは、捨て去られ、言葉の背後にあるもの、言葉が指し示しているものが分かるようになってくるということもありますが。)

また、書かれてある「信じています」は、単に頭、マインドだけのものではなく、これまでの体験、実感等に基づいた洞察、
そして、在る(真我)を何度も直接体験されてきて(体験の深さ、クリア度合等は人それぞれとも言えますが)、
その「知っている」という本質そのもの、あるいは、ハートから来ている部分もあるように感じます。

> > そして脱洗脳を実践しています。

はい、それが例外なく(今は自分自身と思っていて気づかない同一化している部分等も含め)、徹底的に実践され、
真にあるがままで在れれば、自由、心の平和につながっていくでしょう。

まずは、今自分と思っているものの周りにあるもの(すべての聖者・すべての聖典も含めて、すべての教え)から実践され、
そして、ご自身の感覚、体験、理解等のみを信じ、それを頼りに、それだけに注意を向けていくことで、
今自分と思っているもの(観念、記憶等と同一化している部分等)も洗い流され(純化され)、本質が残るでしょう。

> > それがどこへ向かうのか、それは今の私には分かりませんが、それは自分だけの回答になる気がします。

真には、自分(真の自己・真我・在る)しか存在しませんので、その気、感覚は、本質的に正しいです。

> > つまり、私の悟りと他の人の悟りは同じではないだろう、と思います。

はい、現れ、多様性の世界ではそのように見えることもあるかもしれません。
本質を知る人には、その本質部分においては、言葉、表現の違いを超えて、すべては同じものと見えるかもしれませんが、
現れる形は、それぞれの時代、周囲の状況、環境、それぞれの辿ってきたプロセス等が違うため、違ったものになってくる、
それが、現れ、多様性の世界の自然さであるということが言えます。

> > 何か一つの悟りがある、誰もが認める、絶対的悟りがあるというのは、幻影であるこの世の情報であり、真実ではないだろうと思っています。

ご自身が腑に落ちる解答に出会われたとき(今の結論でよかったというより深くトータルな再認識も含め)、
その解答そのものとなったとき、それは分かるでしょう。

またそれは、どの立ち位置からどのように見るかで変わってくるとも言えます。

ひとつの視点からは、本質、在るの立ち位置、そして、一元性の立ち位置から見れば、悟りはひとつ。
現れ側から、現れた姿形を見れば、多様にも見えることがある、ということが、言えると思います。

(その他、別の視点からは、覚醒した存在のそれ自身に対する理解の深さや広さ等、
また、知ったものを個人の立ち位置から個人のフィルターを通して話しているのか、
在るの立ち位置から純粋に話が起こっているのか等でも、伝わってくるもの、純度、響き、
そして、現れてくる姿形等も違ってくるとも言えます。)

無空庵では、本質は同じであり、ひとつであるが、その見方
(それは、純粋な存在であり、意識であり、無であり、空であり、愛であり、至福であり、
平和そのもの、静けさそのもの、落ち着き・安らぎ・寛ぎそのもの、よろこび、自由、美そのもの、
また、無限そのものでもあり、未知そのもの、すべて・全体そのものでもあり、それをどう見るか、
それがどう見えるか)、捉え方、感じ方、
また、そこからの現れ(あるいは、その中でのゆらぎ)も含め、すべてをどのように見るか、見えるか、
さらには、それがどのように表現されるか、そこからどのような表現が起こってくるかは等は無限である、
というスタンスで在ります。

無空庵で表現として起こってきていることも、無限にある中のたったひとつの視点、捉え方、表現であるとお伝えしています。
(その表現の中に、そのときの状況、流れ等により、ときに、断言、断定が起こってくることもありますが。)

マインドもまた、現れた在る(真我)であり、素晴らしいものでもありますが、その一側面として、
多様性の世界においても、物事を一律的、一面的に考えたがる傾向があります。
また、比較等により、ひとつの真実があり、その他をそうではないものとしたがる傾向がありますが、

ひとつの視点からは、真実(在る・真我)は、美です。

それを、一律的、一面的に考えること、定義すること、はかることはできません。

そしてまた、真実(在る・真我)は、愛です。

幸せそのもの、平和そのものです。

それは、多様な現れ方をします。

この現れの世界に、美は多様に現れ、

愛、幸せ、平和等も、様々な形で現れ、

それぞれの存在に、それぞれの美、それぞれの愛、それぞれの幸せ、それぞれの平和等があります。

(美しいと感じるものはそれぞれでも、美しいと感じている心、ハートは同じです。)

でも、その本質は同じです。

それが現れる源はひとつです。

それが、ただひとつであるもの。

それは、美そのもの。

愛そのもの。

幸せそのもの。

平和そのものでもあります。

それが、ただひとつであるすべて。

すべてであるものからは、すべてが現れていきます。

美そのものから美が現れ、

愛そのものから愛が起こり、

幸せそのものから幸せが溢れ出し、

平和そのものから平和が実現されていきます。

無空庵の記事、また、聖者、覚者の言葉、聖典等の読み方も、マインド的な読み方のほかに、

(「理・り」もまた、ひとつの美であり、愛であるということも言えますが。)

ひとつの美、愛の現れ、幸せそのものの顕現、平和そのものが姿かたちをとって現れている、という見方、

感じ方、味わい方をされてみるのもよいかもしれませんね。

絵画を鑑賞するように。

音楽を聴くように。

風に吹かれるように。

香りを嗅ぐように。


様々な聖者、覚者の言葉、表現も、時代背景や環境、そして、どのような方に対して表現するか等により、

その表現方法も含め、自ずと変わってくるとも言えます。

「何か一つの悟りがある、誰もが認める、絶対的悟りがある」と表現する必要が(全体的な視点からも)ある場合もあるかもしれません。

在るから、ただそのように起こってくることがあるかもしれません。

また、それを語る人のマインドの都合(在る・全体と同調していないマインド)によって、そのように語られる場合もあるかもしれせん。

(そのような場合には、注意が必要です。)

語る側の在り方だけでなく、それを聞く側がどう在るか、ということもとても大切です。
> >
> >
> > よろしくお願い致します。

こちらこそよろしくお願いいたします。

無空
【個人セッションに関してはこちらです。】
【お問い合わせ等はこちらからどうぞ。】

ランキングに参加しています。
よろしければ、クリック応援をお願いします。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
精神世界ラ
ンキング 人気ブログランキングへ
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック