ただ在ること。もっとも自然で、もっともシンプルで、もっとも豊かで、もっとも満たされた在り方。

ここでは、「ただ在ること。もっとも自然で、もっともシンプルで、もっとも豊かで、もっとも満たされた在り方。」 に関する記事を紹介しています。
今回はセッションを受けれられているNさんから頂いた感想と無空の返信を、参考までにご紹介させて頂きます。

Nさま

感想ありがとうございました。

> 無空様
>
> こんにちは。Nです。感想を送らせていただきます。
>
> 2013,1,14.(2010年11月8日より195回目)
>
> セッション:後半、無、空などを感じていました。
>
> この1~2年「生きているのが退屈で、つまらない」のですが、それを無空さん
> に言ったところ、「退屈さ、つまらなさに浸ってみては?」と言われたので、そ
> れを時々やっています。まだよく分かりませんが、つまらなさが見つからず、消
> えて空になる気がします。

これまで「退屈さ、つまらなさ」から逃れようとされてきたとのことでしたので、
お話の感じから今回のようにお伝えしてみました。
それをまるごと受容し、それそのものとなったとき、個人とその感情を引き起こして
いるものとの距離、関係性は消え去り、本質だけが残ります。

そして、その空は、今はただ空(何も無い)としか感じられないかもしれませんが、
さらにその空に馴染み、また、存在全体のさらなる純化を続けていけば、
それはとても豊かで、とても満ちた空であることが分かるようになって来るでしょう。

フーマン「恩寵の扉が開くまで」より。

【あなたは最初に「空」となるべきだ。
そうして初めて、あなたは満たされる。】

満たされること、すでに満たされていることを知っていくのはこれからですね。

フーマン「恩寵の扉が開くまでⅡ」より。

【本当のあなたは(それはノーマインドであるが)、例えば「純粋な気づき」に限定されるものではない。
「絶対の境地」であったり、「純粋な愛」であったり、様々な違った要素を持っている。

しかし、それらは同じものであり、同じエッセンスだ。】

「空」には、無限の側面があります。
それは、気づきそのものであるだけでなく、愛そのもの、喜びそのもの、豊かさそのもの
でもあります。
それらは、頑ななものが溶け、存在全体がよりやわらかく、より繊細になっていくにつれ、
自然に開かれてくることでしょう。


> 「誰がつまらないと感じているのか」とも訊かれましたが、これはなかなか難し
> く、つまらないと感じている人が見つかりません。

そうですね。
つまらないと感じている一時的な主体、あるいは架空の主体は個人(マインド)です。
それは状況により起こったり消えたりするある意味、影のようなもので、注意を向け、
気づきの光を当てると消えてしまいます。
それは、それ自身と距離(時間も含め)のある対象との関係性の中でのみ現れてきます。

(個人は、状況に応じて断続的に現れてくるものですが、それを「私は個人である」という
理解、記憶、あるいは、誤解の力(それもまた、真我の自然本性・愛から起こる創造の
プロセスの中での個人体験を可能にするためのもの、あるいは、真我自身の再認識の
ための創造的誤解、必然的誤解であるという言い方もできますが。)が働き、個人を常在、
実在するものと思わせています。)

現われのすべては幻想であると感じられ、何も起こらないことがむなしいとのことですが、
むなしいと感じている主体がより純化され、透明になること。

そして、真実の関しての理解として、
ラマナ・マハルシ「あるがままに」から、参考までにご紹介します。

【真理の探究者(アビャーシ)は、「つねに存在するものが実在である」という定義から進みはじめる。
それから彼は世界を非実在として捨て去る。
なぜなら世界は変化するものだからである。
このように、変化するものを非実在として捨て去っていくことで、探求者は究極的に真我にたどり着く。
その実現のなかで、彼はすべての存在がひとつとして在ることを見いだす。
そのとき、最初に非実在として捨て去られたものも、ひとつとして在ることの一部分だったことが理解されるのである。
実在のなかに吸収されれば、世界もまた実在である。
真我の実現のなかではただ存在だけがあり、他には何もない。

シャンカラーチャーリアは彼のマーヤーの見解について、人々から理解されないまま批判された。
彼はこのように言った。
(1)ブラフマンは実在である。
(2)宇宙は非実在である、そして
(3)宇宙はブラフマンである。
彼は第二番目のところで止まらなかった。
なぜなら、第三番目が他の二つを説明しているからである。
それは、もし真我として知覚されれば宇宙は実在であり、真我から分離したものとして知覚されれば宇宙は非実在だということを意味している。
したがって、マーヤーと実在はひとつであり、同じものなのである。

真理の探究者の段階では、あなたは世界が幻想だと言わなければならないだろう。
他に道はない。
ある人が、自分は実在であり、永遠に、全てに遍在するブラフマンだということを忘れ、はかない身体であふれた宇宙のなかのひとつの身体を自分自身だと思いこんで、その迷妄ゆえに苦しんでいるとき、あなたは彼に世界は非実在でしかなく、それは迷妄なのだということを気づかせなければならない。
なぜか?
なぜなら、真我を忘れた彼の視野は、外側の物理的な世界のなかに浸っているからである。
あなたが外側の物理的な世界は非実在だということを彼の心に焼きつけないかぎり、彼が内側に向かい内観することはないだろう。
ひとたび彼が真我を実現すれば、彼自身の真我以外に存在するものは何もないと知るだろう。
そして彼は宇宙全体をブラフマンとして見るようになるだろう。
真我を離れて宇宙は存在しないからである。
人が、すべての源である真我を見ずに、外側の世界だけを実在で不変のものとして見ているかぎり、あなたは彼にこの外側の宇宙は幻想でしかないと伝えなければならない。
それはどうすることもできないのだ。
紙を見てみなさい。
われわれは文字だけを見ている。
文字が書かれている紙に気づくものはいない。
文字がそこにあろうとなかろうと、紙はそこに在る。
あなたは文字だけを実在と見なしている人に、それはただ紙の上に載っているだけで非実在、幻想なのだと言わねばならない。
賢者は紙と文字をひとつと見なす。
それゆえ、ブラフマンと宇宙もひとつとして見るのである。】

現われの姿形は、常に変化していきます。
ですが、そのエッセンス、本質は、不変不滅の真我であり、それが変わることはありません。
その本質である部分は姿形を持ちませんが、それがあらゆる姿形をとって現れているのです。
何にでもなれるものは、何ものでもないものです。
あらゆる姿形をとって現れることができるものは、一切の姿形を持たないもの(空)です。

起こっては消えていくもの、現象であり、常に移り変わっていくという視点から見れば、
それは幻想(現象現実)と見ることができますが、もう一歩進んで、そこに不変の真我を見、
感じることができるようになっていきましょう。

また、「それそのものであれば何も無い(空)ですが、そこから出てしまう。
出てしまう(個として幻想世界に触れると)とむなしい」とのことでしたが、

創造が終わることはありません。

(同時に、一切の創造は一度も起こったことはなく、これから起こることもない。とも言えますが。)

状況により個は現われ、世界も現われ続けます。

そのことをクリアし、超えていけるのは、それそのもので在り続けることによる深い自己理解、

それ以外何も存在しない。

すべてはそれ(真我・在る・愛・純粋な気づき・無・空)である。というマインドを超えた本質レベル

にある本質的な理解です。

すべてが「それ」であれば、「それ」にとどまる、「それ」から出て行くという問題がなくなります。

その場にとどまっていても「それ」。

どこかへ行っても「それ」。

どこまで行っても「それ」です。

本質的な理解に確立されていれば、不動の中の不動としてだけでなく、

動の中の不動としても在ることができます。

現われの中に在り、世界に触れていても、その理解はゆらぐことはありません。

それは、ただそうである、と知っている、

絶対的に知っている、という絶対レベルにある理解です。

とても普通に、

とても自然に、

とても当たり前に、知っています。

絶対的な理解、

絶対的に普通で、

絶対的に自然で、

絶対的に当たり前な理解の力が、

相対を含むすべてを貫き、

自然に「それ(真我・在る・愛・純粋な気づき・無・空)」を実現させます。

ただ実現させます。

それそのものであることをさらに続け、見方、捉え方などの傾向、くせ(習慣)、頑なさ等を含め、

存在全体の純化、変容、そして、自己理解を進め、深めていきましょう。

それそのものの無限の豊かさを知り、

そして、現われの世界もまたそれそのものである、無限の豊かさ、無限の喜びが現れたものである、

姿形が変わっても、無くなっても、それ自体はけっして無くなることのない不滅のエッセンス、本質である、

全体そのものがそれである、

ただそれが様々に姿形を変えながら、全体そのものとして変わらずに実在しているということを知っていきましょう。

何も起こらないからむなしいという思い、感覚もいずれ落ちていくでしょう。

起こらなくなっていくでしょう。

何か起こることへの期待(未来への期待)、

そして、その期待する個人(マインド)も、ただ在ることで純化、変容、成熟し、

より今に、あるいは、今そのもの、在るそのものとして在れるようになっていくでしょう。

真の豊かさ、真の喜びは、在ることの中に在ります。

それは在るそのもの、今そのものです。

在るということにより馴染み、それそのものであることを深めていくことで、

在ることの喜び、在ることの素晴らしさを知っていきましょう。

もし、現われが幻想という見方をするならば、時間こそが幻想です。

順を追って、様々なものは現われ、変化し、動いていきますが、

それに騙されていけません。

時計時間はありますが、それは概念です。

時計の針は動き続けます。

陽は昇り、また沈んでいきます。

見た目の動きはあります。

でも、時間は実在ではありません。

時間を見た人はいません。

それは、心(マインド)の中にだけ存在します。

それはどこに行っても、世界の果て、宇宙の果てまで行っても、

どの次元、どんな神々しい世界に行っても見つけることはできません。

動きは見えます。

見ることができます。

でも、時間それ自体を見ることはできません。

それは実在ではないため、個人と同じく、注意を向けると消えていきます。

見ようとすると、消えていきます。

動きはありますが、それは今(在る)という不動のスクリーン(背景・土台)上でのものです。

今(在る)は動きません。

今(在る)は変わりません。

今(在る)はずっと今(在る)のまま微動だにしません。

すべての動きの背景に在るものは、不変不動なるものです。

様々な現象(動き、現われ)は、今(在る)をべースにしてはじめて存在することができます。

それは、今(在る)から独立して存在することはできず、

今(在る)という不動なるものと別のものではありません。

それは、不動の中にある動です。

それは、静止・静寂の中にある躍動です。

絶対安心、絶対安全、絶対大丈夫、絶対的な愛の中にある冒険、遊び、学び、旅、戯れです。

それは、無限の豊かさ、無限の喜びそのものです。

多重、多層的な真実とそれらすべてを貫く、シンプルで透徹した普遍的真実を見抜き、

シンプルに在りましょう。

ただ在りましょう。

それがもっとも豊かで、もっとも満ちた在り方です。

>地道に続けていきます。
>
> よろしくお願い致します。

はい、よいところまで来ています。

自己理解のさらなる深まりにより、在る(真我・空・愛・純粋な気づき)の素晴らしさを知り、

そして、あと一歩踏み込んだ視点、現われもまた不滅のそれ(在る・真我・空・愛・純粋な気づき)であるという

もっともシンプルで、もっとも豊かで、もっとも満たされた在り方へと進んでいきましょう。

ただそう在りましょう。

それが自然です。

無空

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