存在の妙、存在の不思議、存在の奇跡、存在の奥深さ、存在のそれ自身に対する愛

ここでは、「存在の妙、存在の不思議、存在の奇跡、存在の奥深さ、存在のそれ自身に対する愛」 に関する記事を紹介しています。
今回は、セッションを受けられている方への返信の流れから出てきたもので、長くなった部分がありましたので、先に抜粋してご紹介させて頂きます。

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> 「こんな流れでなくてはいけない」
> 「こんな状況で進まなければいけない」というイメージを
> 良しとして、決め込んでいるのは個人(マインド)ですね。

そうですね。
全体がすでに大丈夫と分っていると、いろいろなところでひっかからなくなります。
>
> どんな流れでも、どんな状況でも、
> どんな1コマでも、それは完全で、
>
> 起こるべくして、起こっているのですね。

そうですね。
まずそれは全体として完全です。
そして、ある意味、部分(1コマ)に見えるようなところの様相は、
その時々で様々な要素が関係してくるので無限に変化します。
でも、それぞれの状況により様々な様相を呈する部分(1コマ)に見えるようなところの本質は、やはりどのような現われ方をしていてもそれぞれが完全です。

真我の視点からは、不完全と不完全を足して完全になったり、
部分(半分)と部分(半分)を足して全体(ひとつ)になるのでなく、
完全と完全を足して完全であり、全体と全体を足して全体です。

全体の部分に見えるようなところ、プロセスのその一部分(1コマ)に見えるようなところも、
それぞれが全体そのものであり、全体が世界に現われる時、
あるいは、全体が世界として現われる時にはそのように現われます。

なぜなら、それは本来分割不可能なものであり、そしてそれ以外存在するものがない、
ただひとつのものだからです。
(分割不可能なものを分離しているように感じるさせる役を担っているのが
マインドとして現われている全体とも言えます。)

唯一存在し、変わらないものとは全体です。

またそれは、存在する存在性そのもの、

その前に、~が(在る)、とつかない 「在る」です。


在るという存在性そのもの

在るというその絶対的な事実

それだけが在ります。

それは分割不可能で、増えも減りもしない不動不変の全体です。


そしてまたそれは愛でもあり、みなさんひとりひとりが、
完全で完璧な愛そのもの、全体そのものでもあります。

ひとりひとりが、その本質においては完璧で完全ですが、
それが現われた世界ではそれぞれに個性があり、特徴があります。
年齢も違えば、体格、性格、能力等もみんな違います。
それは存在(真我・全体・愛)の無限の素晴らしさが多様となって現れたものと言えるでしょう。

そして、それぞれ個性、特徴などの違いがあるゆえに、
ときに助け合い、支え合い、補い合ったりすることも起こりますし、
また、お互いよい意味で刺激し合ったり、高めあったりということも起こります。
共鳴もまたそのひとつでもありますが、絶対(全体・存在・愛)が相対、多様な世界へと現われることで、
絶対が絶対レベルだけでは為しえないこと、
ただひとつのものがただひとつで在ったままでは不可能なことが起こります。

それは、絶対以上、全体以上、無限以上、
あるいは、絶対を超えた絶対、全体を超えた全体、無限を超えた無限、
またそれは、2や3や無限の多様性をも含む一元性とも言えるかもしれません。

そこには計り知れない奥行き、広がり、深みがあります。

現われざるものが現われ、動かないものが不動のまま動き出します。

沈黙が、静寂が、話し出します。

不変なるものに、それ自体は変わらないまま、深化、成長、変容が起こり始めます。

絶対そのものが相対という視点を内に持っていること、
ただひとつの視点、在り方しか持たないものが、無限の視点、無限の在り方を内包していること、
全体が部分という見方を自分自身に許していること、
無限自体が自分自身を限定することを容認していること、

自由が自らに不自由を課していること、
無境界であるものが境界をつくり、分離した視点をそれ自身に認めていること、
完全そのものが、それ自身が不完全な在り方をするということを受容していること、

その本性でもある深い愛が不可能を可能にし、超えられないものを超えていくということを可能にしている、とも言えるかもしれません。

そして、そのような理解があれば、

部分という全体、
限定の中にある無限、
不自由さの中でも生き生きとしている自由、
あるいは、規律の中の自由、
境界を持つ無境界、
不完全の完全 

というものも見えてくるかもしれません。

そのような全体性の視点から見るならば、
ひとりひとりそれぞれ個性、特徴等を持った現われ同士が、
ある意味、お互いの足らない部分、得意ではない部分などを補い合い、
助け合ったり、支えあったりするということは、
単独で完全であること、完璧であることと同等、
あるいは、それ以上の素晴らしきものがそこにはあるということが見えてくるのではないでしょうか。

また、現われの世界の中では、いわゆる相対的な意味での、間違い、失敗、
あるいは、予定通りにいかないこと、複数の中で意見が合わないことなども起こりますが、
それらも同様に見ていくことができます。

完全でしかないものは間違うということができません。
完全そのものが失敗を体験するということは不可能です。
そこには遊びの部分(または、学び、成長、進化の部分)、余裕、ゆとりとも言うべき幅が一切ありません。
それはある意味、とても不自由で、窮屈で、また味気ないものとも言えます。
(本当は、その本質は、絶対的な至福、悦びそのものでもありますが。)

そこに、本質的には絶対完全である全体が、その本性から、
自らに自由(遊び・学び・変化・動き・幅)を与えたのが、この現われの世界とも言えます。

絶対に完全完璧で間違いが起こらないという、ただひとつの事実しかないところから、
視点、焦点、見方、在り方の変化、ゆらぎにより、
その本質は変わらないまま、そのバリエーションのひとつとして、
現われ(現象・幻想・体験)のレベルで、相対的な意味での何かしらの間違い、
失敗、予定どおりいかないということ、ずれが起こります。
(もちろん、本質である完全完璧のバリエーションは、相対的な間違い、失敗等に限らず、相対的な正しさ、成功など無限のバリエーションがあります。)
そのことにより、どれだけの可能性、自由、その広がり、深まり、奥行き、幅、味わいが生まれるでしょうか。

それはひとつの視点からは、閉じた絶対、閉じた自由からの開放、
現われへと、そして、全体それ自身へと開かれた可能性、開かれた自由とも言えるかもしれません。

それは、全体であり、ひとつであるものの絶対完全、絶対安心、絶対安全を背景にした、
あるいは、その中で起こる全体それ自身への贈り物

愛であり、また、許しでもあり、

そのいくつかの例をあげれば、それは、

間違うことの正しさであり、
失敗することの成功、
ちょうどよくないちょうどいい、
不完全の完全です。

相対的な間違いは、真の正しさのひとつのバリエーションであり、
相対的な失敗も真の成功のひとつの現われであり、
ちょうどよくない、間に合わない、不完全もまた、
それぞれ、絶対レベルにあるちょうどいい、間に合う、完全のバリエーションであり、
それと相反するものではありません。

同じく、すべての感情、すべての思考も、絶対レベルの愛の現われです。

また、深い愛からの区別、不平等の平等、不公平の公平なども起こることがあります。
それらを平面的なマインドで理解することはできません。
すべてを一律にするような相対的公平、相対的平等が、必ずしも真の公平、真の平等
というわけではない場合があります。

マインドの領域しか知らず、そこに巻き込まれていては見方が限られてしまいますが、
本質を知り、全体を知れば、現われのたった一コマ、一場面、一部分、ひとつの取り扱いの中にも、想像もできないような無限の素晴らしさ、奥行き、広がり、深さ、全体性、完全性、深い愛、真実、美しさ、味わいが秘められているのが分ります。

そして、その1コマ1コマが無限にあり、それらが他のすべての1コマ1コマと無限に関係し影響し合っているのが、全体が全体のまま、全体を構成する部分としても現われている現象世界です。
それはやはり、ひとつの視点からは、全体を超えた全体と表現してもいいかもしれません。


そしてその全体を超えた全体の素晴らしさは、もちろんこれまであげた相対的な間違い、失敗、不完全というものだけに限られるものではありません。

その素晴らしさは、現われの世界にあるすべてのものの中にあります。

相対的な正しさ、成功、完全、ちょうどいい、そして、人と人との分かち合い、助け合い、支え合い、現われの中で起こり感じる愛、感謝、やさしさ、思いやり、その他あらゆるものの中にそれは在ります。

それは、完全に満ちたもの(絶対・全体)から満ち溢れだした愛、こぼれ落ち、実り落ちた豊かさ、悦びと幸せ。

不動から生まれた動。

静止から生まれた躍動。

不変から生まれた成長、進化。

生命そのものから生まれた 生きる ということ。

一なるものから生まれた多様性。

ひとつの視点、ひとつの在り方、ひとつの角度から生まれた、無限の視点、無限の在り方、無限の角度。

無音から生まれた無限の音、無限の旋律、無限の調べ、無限のハーモニー、無限のシンフォニー。

無味無臭から生まれた無限の味わい、無限の香り、無限の芳しさ。

無色透明から生まれた無限の色合い、無限の色彩、無限の彩り。

無知から生まれた無限の理解、無限の認識。

無から生まれた無限そのもの。

無限から生まれた無限以上。

個人として現われ、個人がないことを知り、個人がいない素晴らしさ、気楽さ、軽やかさを楽しむ。
全体が全体として、それ自身を味わう。
透明な個と全体はひとつとなり、もはやそれらの呼び名さえ、ただの便宜上のもの、視点の違いでしかなく、
そこに在るのは、ただそれだけ。
愛だけと知る。

個人はいない、
愛だけが在る、と知る者同士が協力し合う、
共鳴する、

空と空の共鳴、
真我と真我の共鳴、
愛と愛との共鳴、

ただひとつであるものが、共鳴し合う

それは不可能を可能にしているとは言えないでしょうか。

そこには、ただひとつのものである存在の妙、存在の不思議、存在の奇跡、存在の奥深さ、存在のそれ自身に対する深い愛が在ります。

そして、それは自覚、認識しているしていないにかかわらず、いつも普通に起こっています。

それが何よりの奇跡です。

それが変わらない愛です。

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