主体が真我(愛)で在ることが大切。

ここでは、「主体が真我(愛)で在ることが大切。」 に関する記事を紹介しています。
今回は、セッションを受けられている方へのコメントの流れから出てきたものですが、一般的なものになってきましたので(その他多くのコメントもそうですが)、最近入ってきた情報等も補足し、別記事としてご紹介させて頂きます。

セッションを受けられている方の

> マインドの巧妙さに見事にしてやられ(笑)
> 少しは空を体験していたように感じていたけれど
> いやいや何もわかっていなかった(^^ゞ

という流れから出てきたものです。

***************


マインドはどこまでも主体となり、主導権を握り、物語をつくりたがります。
相当クリアになり、共鳴はとても深く素晴らしい状態になっても、
また別の状況のときには、いつのまにか主体がすり替わり、気づかないうちにマインドが主になっていたりすることがあります。

真我を知るまでは、認識できている範囲内ではずっとマインド主体できたわけですから、真我を知っても、マインド主体のパターンはすぐには落ちず、その習慣の力はしばらく継続して働いていきます。

真我を知って(覚醒して)、その時には、真我それ自身の直知による再認識も起こりますが、分った(悟った、覚醒した)と思っているのはマインドです。(それがマインドがあると気づいていればOKです。)

また、別の視点から見ていきますと、覚醒(再認識)が起こったときのマインドでの純粋な理解の部分と、“自分は分った”という存在の主体としての位置にいるマインドとは違います。後者は自我(エゴ)ですね。

覚醒(再認識)が起こるときは、ある意味、真我自体がトータルに直知する部分の他に、それをマインド的にも翻訳して理解する部分があると言えますが、それは常に気づきとして在る真我が“マインドを通して知るの”であり、マインド(自我)が知るわけではありません。

自我であるマインドができるのは、真我が直知と、そしてマインド(理解するマインド)を通して知った純粋なものを、ある意味、横取りし、自分のものとして所有することだけです。

“真我が”マインドを通して知るのであり、

“マインドが”マインドを通して知るのではありません。

知る真の主体は、マインドではなく、気づきそのものである真我です。

“マインドで”知ることはできますが、“マインドが”知ることはできません。

このように理解しておくことはとても重要です。
この点に注意深くあれば、マインドが主体になることはないでしょう。
知る者、体験者、観照者としてあるのは、常に真我(無・空)です。
マインドが知ったように感じられますが、注意深く見れば、
常にその核には真我が在ります。
それは気づいている意識です。

それを、マインドは、“私が知った”、“私が体験した”、“私が観た”としますが、
マインドは起こったり消えたりする一時的現象で、真の主体にはなりえません。
真の主体は気づいている意識であり、真我であり、永遠不滅の在るです。

真我を知り(覚醒して)、そのような理解が起こり、源と現れの違いが明確に分るようになってはじめて、それまでのマインドのパターンから解放され、真我に確立していくための“スタート地点に立てた”と言えるのであって、そこからが悟後の修行と言われるところになります。

(覚醒の段階で、かなりマインドの成熟が進んでいれば、その後はとてもスムーズな流れになりますが、それぞれの気質、タイプ、それまでのマインドのパターン、その強さ等により、覚醒後の歩みはまったく人それぞれであるとも言えます。
(ちょうどこれを書いているときに、リンクさせて頂いているまるまるさんのブログで参考になる記事が投稿されていました。「ところん、自分のペース」
マインドが未成熟の段階で、何か不自然で強制的な修行や行法、あるいは、事故的なもので覚醒が起こった場合などはその後の歩みがかなり大変になる場合等もあります。)

そういう点で、どこまでも謙虚さと注意深さは必要です。

最近、無空庵と、無空庵で直接共鳴セッションを受け、ご自身でもセッションを提供されている方以外でも、共鳴のエッセンスを取りいれ、セッションやカウンセリング等をされている方々が増えているようですが、
(無空庵とはまったく関係ないところで、「ゼロ意識共鳴セッション」というセッション名でセッションをされている方もいるようです。)

特に、セッションを提供し、真我の確立へと導いたり、サポートしたりする立場に立つような場合には、共鳴中以外でも、真我が主体として在ることが大切です。

深い共鳴が起こせる“個人”ではなく、

深い瞑想ができる“個人”ではなく、

主体が真我(愛)となっていることが大切です。

共鳴中だけ真我で、その他は個人が主体となっている場合には、いくら深い共鳴が起こっても、トータルで導ける所はそれなりのところにとどまってしまいます。
彼方まで導くことは不可能です。
(受け取る方が、準備ができていて勝手に進んでいく場合はもちろんありますが。)
また、実際起きているようですが、逆に迷わせてしまうこともあるでしょう。

それから、個人の部分を大切したいという考え方がありますが、その現われである個人の部分がもっとも輝くのは、100%真我に明け渡しているとき、あるいは、真我そのものとして100%真我の立ち位置に在るとき、ただ在るときです。(分りやすい言葉で言えば、無心であるときとも言えますね。)

厳しい言い方ですが、中途半端な理解で個人を認識し、中途半端な状態のままで個人を擁護していると、足元をすくわれることになります。
(上にも書きましたが、実際、共鳴のエッセンスを取り入れられているところで、迷いに入っているケースや、マインド的な在り方になってしまっているケースがあるようです。)
そのような場合(中途半端な理解で個人を認識し、擁護している場合)、極端に言えば、99%真我でも、1%の個人(マインド)がいつも控えていて、大事な時に主導権を奪われる可能性があります。

以前、「真我の世界と現実世界を両方都合よく欲しがっている自分がいます。」という記事の中で「「いいとこ取りしたいマインド」と書いたことがありますが、ここも大切なポイントです。

個人等現われの部分がもっとも大切にされ、同等に愛され、真に輝くのは、両足でしっかりと真我の場に立っているとき、真我に立脚しているときです。
(Wingさんの4月20日の記事「真我」にあるような、真我に立脚した状態にあるときですね。)
片足マインド(個人)、片足真我というような在り方は、都合のいいマインドの考え方です。
(真我は、それも深い愛で容認しますが。)
マインドが考える、「マインドを大切する」、「個人が大切する」というのは、多くの方(マインド)には受けがよく(特に、真我の視点、真我の知識をマインドを使った場合、多くの方に影響が出る場合があるでしょう。)、賛同されることも多いかもしれませんが、本当の意味では、マインド(個人)を大切にできていません。
必要、状況に応じて、一時的にそれが有効なことはありますが、それはマインドに対する真の愛、真の受容ではありません。

個人の部分を本当の意味で大切にしたいのなら、個人を超え、全体として在ることです。

ただそれ自身(真我・在る・愛・全体)で在ることで、それ自身とその現われすべての面倒を見ることができる真我(全体・在る・愛)として在ることです。

個人を超えず、あるいは、片足だけ真我にあって、片足は個人の領域に残したまま、マインドで個人を大切にしようという態度を保っている場合、真我の方に完全にシフトしたくない個人が巧妙に抵抗している場合があります。
(それを個人の抵抗だと気づいていればOKです。あるいは、今はプロセスの途上にいるという理解があればOKです。)

真我に立脚していれば、自然と個人を含めたその現われのすべてを大切にし、愛することができます。

これは、ニサルガダッタ・マハラジが、「世界を改善したいなら、世界を超えていくことだ」、と言っていることと、ある意味、同じです。
これまでの覚者方が、マインド(個人)は幻想である。マインドを超えていく必要がある。というようなことを言って来た真意、その深い愛を深く知っていきましょう。
それはマインドにはとても厳しく聞こえるかもしれませんが、それは厳しいほどに深い愛なのです。
それはけっして現われの部分を否定しているわけではありません。

分離と制限があり、変わり続ける現われがすべてだと思っていて、そこに巻き込まれ問題を抱えている状態にある方々には、まず、分離がなく、無限で不変である源が在ること、そしてそれが本当の自分であることを伝え、それを指し示し、変化しない絶対安定の源と変わり続ける不安定な現われの違いを明確にし、その立ち位置を絶対安心、絶対安定の源(真我・真の自己)にシフトするよう促すことは、真実を知った先達たちの真の善意であり、深い愛です。

そして、その真の善意、深い愛に導かれ、絶対安心、絶対安全、不変不動、不生不滅である真我に確立すれば、変わり続ける不安定な現われが栄光化されます。
それまで不安定と見えていたものが、素晴らしき真我の現われの永遠の躍動、変容し続ける真実の美、光、愛、調和の現われに一変します。
絶対安心、絶対安定の中で、変化(現われ)を楽しむことができるようになります。

中途半端に、マインドをマインドで擁護するのは、根本的な解決にはなりません。

(真我の立ち位置に立ち、それにマインドが沿う形ならばよろしいですが。)

ときに、状況、必要に応じてそれはあってもいいですが、それが常の態度としてあると、いつのまにかマインドが主体となり、いざというときには、マインドが主導権を握っているという状況が続くでしょう。

それを変えるためには、マインド(個人等)を超えて、ただ在ることです。

起こってくるマインドに対しては、ただ気づいていることです。

それが、真我のマインド(個人等)に対する愛です。

マインド(個人等)はもともと真我から生まれた真我そのものでもあります。

個人を個人の場に置いたまま、その場に執着したまま、栄光化することはできません。

個人を脇に置いたままではなく、個人も含めた存在全体が真我に溶け、透明になることではじめて、個人は、真我そのもの、愛そのものの純粋な現われとして、真の輝き、無限の光を放つようになります。

何度も、真我に戻ることを繰り返していくことにより、徐々に存在全体としてトータルに透明になっていくでしょう。

個人も含めたマインドは真我に溶け、そしてまた、真我であることを思い出した新しいマインド(成熟したマインド)として帰ってきます。

働きとしてはそれまでマインドと言われてきたものとある意味同じですが、自己理解が進んだ者にとっては、それは真我(愛)以外の何ものでもありません。

ただひとつの愛だけが存在しています。


【個人セッションに関してはこちらです。】
【お問い合わせ等はこちらからどうぞ。】

ランキングに参加しています。
よろしければ、クリック応援をお願いします。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
精神世界ラ
ンキング 人気ブログランキングへ
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
管理人の承認後に表示されます
2012/05/01(火) |