真我の世界と現実世界を両方都合よく欲しがっている自分がいます。

ここでは、「真我の世界と現実世界を両方都合よく欲しがっている自分がいます。」 に関する記事を紹介しています。
今回はセッションを受けられているSAKUさんから頂いた感想と無空の返信を、参考までにご紹介させて頂きます。

SAKUさま

感想ありがとうございました。


> 無空さまお世話になっております。SAKUです。

> 先日のセッションの感想です。

> いつものとおり、共鳴が始まるとすーっと無の世界に入りました。

今回もとてもスムーズでしたね。

> とても静かで深い感じがありました。
> 自分一人では、まだこれほどの静寂には入れないので、
> 毎回貴重な経験になっています。

共鳴での体験を重ね、そして、理解が深まってくると、
日常でも徐々に共鳴中の静寂と同じように在れるようになってきます。

> 瞑想ではいつもそうなのですが、
> 頭の中がざわざわしていました。
> 途中からそれらが消え、また静かな世界になりました。

目を閉じると、外側へも行っていたの焦点がより内側に向きますので、
浄化としての雑念等が起こってきやすくなるときがあります。
それはよいこと(浄化)が起こっているのであり、
その状態をそのまま、ただそうであると認め、肯定し、気づいていること。
また、戻れる時は、焦点を在る、または、気づいている意識(純粋な気づき)に
戻すようにされるといいですね。

> このごろは意識に注意を向けるのが以前より楽になりました。

いいですね。

> 前は何かこれから特別なことをするかのような小さな覚悟や準備があって、
> そこから意識を向けるというプロセスを踏んでいたのが、
> このごろは思った瞬間向けられるようになりました。
> この変化がとてもうれしいです。

はい、実践していくと、プロセスはよりシンプルに、そして、より自然になってきます。
とてもよい感じですね。

> その一方、真我の世界と現実世界を両方都合よく欲しがっている自分がいます。

よく気づかれていますね。

以前行っていたセミナーでは、それを「いいとこ取りしようとするマインド」というような表現をしていました。

“都合よく”、”欲しがっている”というところに、マインドの性質が現われていますね。

それも真我を知っている個人から、個人を知っている真我へと主体がシフトしていく過程で、個人(マインド)がまだ主体であるときに、起こってくるものと言えますね。

(主体という表現も必要に応じて使っており、行為者・体験者等の主体も何もない(無・空)という表現をするときもあります。
また、必要に応じて、立ち位置という書き方もしますが、そこに立っているものはいません。そこには、誰もいない、無い(無)だけが在ります。
そのような視点のときは、意識(それは無でもあり、空でもありますが)、焦点がそこに在る、それそのものとして在る、という理解がよろしいと思います。)

厳しい言い方をするならば、

「日常をよくするために」、

「現れの世界を素晴らしいものにするために」、

「みんなのために」、

「世界にために」、

「よいものを伝えたい」、

「よいものを広めたい」

という中などにも、マインドが入っている(入ってくる)場合があります。

(純粋なインスピレーションとほぼ同時、または、後から、マインドが加わってきて、いつのまにか主導権を握り、真我から起こったその純粋でトータルなインスピレーションを、一面的、部分的なもの、あるいは、純粋ではないものにしてしまうことがあります。)

~のために、という意図、目的を持つのは、マインドであり、真我に目的、意図はありません。

真我が認識しているのは、愛だけ。

すべてである自分自身だけ。

それだけが在ります。

すべてはそのように認識されます。


それが絶対的な視点からの認識であり、それが内なる叡智、
または、真我それ自身の現れであり、またそれそのものでもある
マインドを通して見られることにより、世界、みんな、日常、誰かに伝える、
ということなどの認識、感覚が現われるとも言えます。

(深い“理解”があれば、そのような認識が起こってきても、愛だけがあり、すべてはひとつであるという絶対的な真実の認識も、より深いところ、または背景に、意識されるかどうかにかかわらず、常に変わらずに在り続けます。)

少し詳しく書きましたが、
話を戻しますと、~のために、と目的を持つのは、マインドであり(マインド経由という言い方もできますが)、
絶対であり、ひとつのものである真我自体に、目的、意図はありません。

ただ、その本性(愛・知性)があり、それが自然に働いているだけです。

そして、それが自然本性であり、何の意図も、目的もなく、自然に、自発的に起こってくるものであるがゆえに、
その働きは絶対であり、無条件であり、無限です。

(それに対し、マインドは相対であり、それ自体が条件(制限、時空)の中にあり、有限です。)

起こってきたひとつのインスピレーションを取ってみれば、そのインスピレーションがトータルに実現されるまで、そのインスピレーション自体の運命が成就されるまで、そのパワー(愛・光)は、自然にただ働き続けます。

さらに必要であれば、同様のインスピレーションが何度も何度も繰り返し起こってきます。
また、それが一人の一生を通しても成就できないものであれば、そのインスピレーションは他の誰かに受け継がれ、必ず成就するでしょう。(時代、状況が変われば、全体の必要性から成就される形が変わってくる可能性はあります。)
より多くの方、より広い世界に必要であれば、多くの方を通して、同様のインスピレーション(真我からの動き、衝動、閃き)が起こってくるでしょう。


もちろん、日常生活をする上で、~のために、という目的も必要ということは言えますが、

全体であり、ただひとつのものである真我の視点から見れば、
すべてのことは、そのひとつであるものの絶対調和、絶対バランス、無限調和、無限バランス等の中で自然に起こっています。

ひとつであるものの中では、意図、目的はなくても、自然な形で、絶対的にすべてがすべてのためになっています。
そこにマインド的な力みを加える必要はありません。
それをすると、逆に不自然なものになってしまいます。

すべてがすべてのためになっているということは、ひとつであるもの(真我・空・愛)の中では、当然であり、とても自然なことです。


また、伝えたい、広めたい、等もマインド(個人・自我)であるということも時々書いていますが、

真我から純粋に、“伝わる”、“広がる”、という動きが、全体としてトータルに、個人を通して自然に起こってくる場合、それを言葉に翻訳すると、伝えたい、広めたい、(真我がそうしたがっている)という感覚になることがあります。

その場合、それを純粋に起こるがままにさせておくのが理想ですが、

(あるいは、伝えたい、広めたい、という真我から起こってくる衝動そのものになる、そのもので在る)

私が伝えたい、私が伝えた、私が広めたい、私が広める、などとなってくると純粋にトータルに現われてきたものが、部分的になり、また純粋なものではなくなってきます。

純粋でトータルなものに、いつのまにか、私というマインド(個人)が入り込み、そして、いつのまにか主導権を握り、個人が真我を使っている状態になってくることがあります。

~のために、となったとき、まさにそれはマインドである場合があります。

~のために、個人(マインド)が真我を使うという状況です。

真我自体に ~のためにはありません。

そのように見えることがあるかもしれませんし、そのような言い方が自然な場合はありますが、

本来、真我は、ただそうである、だけです。

そうだから、そうであるだけで、真我は何の見返りも求めませんし、何の目的や意図も持ちません。

ただ在るだけ。です。

それゆえ、それは絶対です。

それは、分割不可能です。

在るを輪切りにするのは、ayaさんくらいなものです(笑)。

「在るを輪切りしてみた。」

状況、必要に応じて、伝えたい、広めたいは、起こってくるかもしれませんが、それも、ただそうである、と純粋なままにしておくのがいいですね。

真我が主体となると、その焦点は真我(愛)そのものに当たるようになってきます。

というか、すべてはそれ(愛)であるという理解(現実、実感)の中に、ただ自然に在るという感じでしょうか。

それ(愛・調和・平和・自由・真の豊かさ・美など)が、ただ現れの領域にも反映された状態になるということです。

そうだから、そうである、ということです。

(そのように在るから、そのように現われる、ということ。)


また、愛から、ハートから何かをする、というようなこともよく聞きますが、このような中にも、

一見、愛が主体のように見えますが、巧妙なマインドが入り込み、マインド(個人)が愛(真我・空)を使っている状態になっていることがあります。

それ(愛)が主体であるならば、そのときそれ(愛)はただ在るだけ、

それ自身で在るだけです。

そこから必要なことはすべてただ起こっていきます。

そこに、愛、ハートから何かをする、という行為者はそこにはいません。

愛やハートを道具にしたり、手段にしたり、活用しようとする者はいません。


> ずっと真我を求めてきて、真我の自分で生活したいと思うのに、

真我の自分で生活したいと思っている自分、

その“自分”が落ちる必要があります。

(“落とす”ではありません。“落ちる”です。落とそうとするのは、マインドです。
また、落ちても、クリアな状態で変容、成熟したマインド(個人)は必要に応じて起こってきますので、大丈夫です。
さらに進むと、徐々に、真我とマインド(個人)を区別する働き自体も、必要な時以外は起こらなくなってきます。
まったく自然です。
ある意味、個人であったときと、何も変わらないような感覚でもあります。

(それは、核の部分は、個人であるときも真我であり、その感覚は永遠に変わることがないからです。)

でも、そこには、変わらない愛があり、平和があり、幸せがあります。周囲に自然にそれが広がっていきます。)

> 現実を楽しみたい、やらなくてもいいとわかっているのにやってしまう、
> よく本などで言われているゲームをあえてやっている自分がいます。

上にある真我の自分で生活したいと思っている自分が、マインドであるため、

(それは真我へと意識を向けるものでもあり、悪くはありませんが)、

当然、その同じマインドである自分は、ゲームの方にも走ってしまいます。

極端に言えば、マインドにとっては、真我もゲームの中のひとつであり、

真我と現実生活を楽しむということの間で、葛藤ゲームをするわけです。

(あるいは、上に書いた「いいとこ取りをしようとする」わけです。)

真我は、真我と現実生活を楽しむということを分けたりしません。
ですから、葛藤は起こりません。
すべてである真我は、現実生活そのものでもあります。

真我にとっては、すべては真我であり、真我でないものは何もありません。

ただ、巻き込まれていて、意識が外側にしか向いていない状態から、
真我を知り、それに確立していくには、
意識を外側から内側へ、そして、現れである思考、感情、現象現実から
源である真我(純粋意識・気づき・在る・空・静寂)へと向け、それを知り、
何度も体験し、理解が深まっていく必要があります。
そのために、真我に確立するまでは、
真我とその現れである思考、感情、現象現実を区別して認識することが有効です。

真我を知り、それに確立すると、立ち位置と焦点の違い、そして、理解に違いがあるため、(現象)現実生活においての在り方、感じ方、体験は自然に違ったものになってきます。

真我実現前と真我実現後では、認識が変わります。

真我でないと思っていた、思考、感情、その他すべての現われもまた、真我でしかなかったことが分ります。

そして、真我とは愛そのものでもあったということが分ります。

すべては愛であったことが分ります。

愛だけが在ることが分ります。


> 真我の世界と現実世界を分離して考えていること自体が違うような気もしますが、

その感覚は本質(真我)から来るものですね。

> 今の自分が感じている率直な感覚です。

>自分の中で少し葛藤がある状態で過ごしています。

真我を知ってる個人から、個人を知っている真我へのプロセス、真我実現へのプロセスの中で、ある意味、自然に起こってくるものと言えます。
上に書いた説明が参考になるかと思います。

> これらすべてに気づきながら生活したいと思います。

はい、その姿勢が在れば、大丈夫です。
必要な部分はサポートしていきます。

> セッションの感想という感じではなくなってしまいましたが・・・

> 次回のセッションもよろしくお願いいたします。

> SAKU

こちらこそよろしくお願い致します。

無空


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