Nさん体験談・他

ここでは、「Nさん体験談・他」 に関する記事を紹介しています。

●ゼロ意識共鳴で、真我・無限の愛である本当の自分に目覚め、本当の自分を実現する!

真我はただ在る。ただ自分自身(愛)である。シンプルな生き方。シンプルな在り方。
無空庵で「愛」(存在の愛)と「空」、そして「在る」こと(自分自身であること)の素晴らしさを知る。
悟り・覚醒・変わらない愛と幸せ・心の平安を実現!

無空庵では、スカイプで全国の方を対象に、ゼロ意識共鳴個人セッションを行っています。
個人セッションは、ゼロ(仏教では空)の意識の共鳴ワークであり、心の浄化法、本当の自分を知る方法、無限の愛と自由、心の平和、本当の幸せ、真我覚醒、真我実現を促す方法です。

ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、フーマン、エックハルト・トール、ガンガジ等の言及する「悟り」「覚醒」「真我」「本当の自分」の実現をサポート!メッセージ1 メッセージ2

※多忙のため、セッションに関するお問い合わせの返信には、数日~1週間くらいかかることがあります。また、同様の理由により、読者の方からのご質問にはお答え致しかねます。ブログへのコメントにもお返しできないことが多いと思いますが、あわせてご了承願います。

公開・日々の小さな合同共鳴
※どなたでも、森羅万象あらゆる存在の意識参加自由。
毎日6時、10時、11時、11時40分、13時10分、16時15分、17時、18時、21時 2011・11・3~
(6時以外は、無空庵の基本セッション時間です。)。
各30分(その内何分でも構いません。ただそっと意識を向けてみてください。そして、できる方はご自身の存在感覚、在るという感覚、又は、気づいている意識に気づいていてください。)
※参加された方々の記事。
蓮さん①, wingさん①のびのびさんsatorinさん

公開・週一合同ゼロ意識共鳴
※どなたでも、森羅万象あらゆる存在の意識参加自由。
毎週木曜日21時と21時30分から各30分間。 2011・11・10~
※こちらの記事もご覧ください。合同ゼロ意識共鳴は、集合意識の変容を促す。+感想③
第1回感想①感想②
※参加された方々の記事 しみっちさんWingさん蓮さん

こちらの記事は、無空庵第二ブログへ移設いたしました。

(場合によっては、移設記事がネット上に反映されるのに少し時間がかかるかもしれません。その際は、ご不便をおかけし申し訳ございませんが、少しお待ちいただきますようよろしくお願いいたします。)

第2ブログ案内1

(上記ご案内はリンクになっておりませんので、お手数をおかけいたしますが、URLを入力、あるいは、「無空庵第二ブログ」等で検索して頂きますようよろしくお願い致します。)

無空庵第二ブログ左サイドバーのカテゴリ■セッション体験談・他のNさんの体験談・他のところ、または、第二ブログ上部の全記事一覧、または、左サイドバー下部の月別アーカイブ等から、2015年12月20日の記事をご覧ください。
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Nさま

感想ありがとうございました。

> > 無空様
> >
> > こんにちは。Nです。感想を送らせていただきます。
> >
> > 2014,4.7.(2010年11月8日より256回目)
> >
> > セッション:だいたい静かでした。
> >
> > 今の私の焦点は「あるがままで在る」ことです。
> > 「あるがままで在る」とは、「自分・他人・環境のすべてを否定しない、そのままであることを認める、しかし、変化も認める」こと。
> > 「あるがままでない」とは、「今の自分・他人・環境を変化させたいと思う、希望・願望・欲求する、悟りたいと思う、より良い人間になりたいと思う、世界を変えたいと思う」などです。
> > 「あるがままで在る」ことと「悟り」との関係は、「あるがままを認めないのはエゴ(自我、行為者としての自覚)の作用で、あるがままで在り続ければエゴは消滅する。エゴが消滅し、ただ意識として存在していれば、それが悟り」。
> > 「悟りたい」と思わなければ悟りにはなかなか到達できない(とされてきた)が、「悟りたいと思っているうちは悟れない」という自己矛盾。ただ、それもこの見せかけの現象の世界の中の話で、悟りの世界(ニルヴァーナ、真我)には何の矛盾もない。
> > もともとエゴも架空の存在で、元から存在しないし、そういう意味で、悟りは初めからすべてに行き渡っている。「あなたは既にそれである(あるがままのあなたは既に悟っている)」とマハラジやマハルシが言うのも、そういうこと。
> > 初めから何もする必要はなかったのだ。

そのことに気づくために、あるいは、「する」という傾向を持つマインドが成熟するために、
様々なプロセス、体験を通っていく(そのプロセスのひとつひとつ、体験のひとつひとつもまた、
同等に価値があり、素晴らしいものであると言えます。)、という見方もできますね。
また、「すでにそれであったこと」、「すでにそうであったこと」に気づくこと、
それを自覚、認識すること、そして、真に腑に落ちて知ること、理解することを「悟り」という言い方もできますね。

> > 元もと「あるがまま」であったし、今も「あるがまま」だし、悟りは初めからあった。
> > 悟るために何もする必要はなかったが、しかし、何かをしてもOKだ。
> > 要するに、何でもOK。
> > 悟るために修行も断食も聖典を読むこともグルも信仰も、そして共鳴も、何も必要なかった。
> > 「私は既にそれである」。

よいところに来ましたね。
> >
> >
> > よろしくお願い致します。

ありがとうございました、

無空
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Nさま

感想ありがとうございました。

> > 無空様
> >
> > こんにちは。Nです。感想を送らせていただきます。
> >
> > 2014,3.24.(2010年11月8日より255回目)
> >
> > セッション:だいたい静かでした。
> >
> > 自由意志不存在説:自由意志は存在しない。
> > 自分が何に納得し、納得しないか、何を理解し悟るかどうか、に関して、私は何のコントロール権も持っていないし、決定してもいない。納得・理解・悟りはただ降りてくる。

すべては、ただ起こってくるという視点ですね。
> >
> > 例えば、私は今、自分が悟るかどうか、ほとんどどうでもいいと感じているのですが、このように「感じる」のは自分の意志ではありません。
> > 自分がそうしようと思ってそうなったのではなく、ただそうなった。その結果、今まで自分の人生の最重要事項だった悟りや修行が、どうでも良くなっています。
> > 自分の人生の舵取りは、これらの納得・理解・悟りによりたいてい決定されることから考えると、自分の人生のほとんどは自分のコントロール範囲外にある。自由意志はないんだと感じます。

その視点、立ち位置で在り続け(再認識を繰り返し)、それをより深くよりトータル感じたとき、
また、書かれてある「自分・私」がより落ちたとき、何かさらなる気づきがあるかもしれませんね。
> >
> >
> > よろしくお願い致します。

こちらこそよろしくお願いいたします。

無空
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Nさま

感想ありがとうございました。

> > 無空様
> >
> > こんにちは。Nです。感想を送らせていただきます。
> >
> > 2014,3.17.(2010年11月8日より254回目)
> >
> > セッション:だいたい落ち着いていました。
> >
> > セッションで、「誰も、何の考え・観念・思想も持っていない(無観念説)」「マ
> > インド(・知性・知的思考・私)は、何が真理で何が非真理かを判別する能力を
> > 持っていない(マインド無能力説)」「悟りなどどうでもよい(誰がかまうもんか)」
> > という3つの私の観念を述べ、更に「ただ、問題は、今も苦しみは終わっていな
> > い」とも述べました。
> > その苦しみとは何なのか?-と考え始めたら、「そんなことどうでもよい」という解答に至りました。

苦しみを問題視することから(少なくとも理論的には)解放されましたね。
状況、状態はあっても、それを問題視する心が、ある意味、さらなる苦しみを生み出すと言えます。
そして、同時に、その問題視する心が、問題を解決の方向へと向かわせる原動力になるとも言えますが、
丁寧に見ていくと、結局最後は、問題視している心(マインド・そのマインドと同一化していること)自体が
問題であったということに気づきます。

> > 思考はどんな正解にも至らないと考えるからです。
> > また、「苦しみがある」という考えは私の考えではないし、「その苦しみは何なのか」と問うているのはマインド(知的思考)で、
> > 知的思考には真理・真実を判断する能力はないので、無駄な思考だからです。

3つの観念(これもただ頭で考えただけのものでなく、体験、実感に基づいた現時点でのご自身の結論、あるいは、洞察ということができますね。)、
をそのまま貫くなら、そのような結論になりますね。
より一貫性が出てきていますね。
よりクリアになってくると、そのようにそれまで、ある意味、同一化していて気づけなったところにも、
意識の光を当てることができるようになってきます。
(あるいは、意識が光が自然にあたるようになってきます。それが起こるようになってきます。)
> >
> > 更に、「苦しみがあるとして、あって何が悪いのか?-何も問題はない」。

それが「誰がかまうもんか」でもありますし、
無空庵でもよく言っている「(それは、あってもなくて、)どちらでもよい」という在り方ですね。

> > 今までは、苦しみを無くしたい、悟りたい、という欲求・観念・思い込みがありましたが、それがそもそも苦しみの元なのだと悟りました。

真の解決(悟り)は、ある意味、はじめマインドが考える角度とは、違うところからやってきますね。

> > 「苦しみOK、悟らなくてOK、悟ってもOK、そのまんまでOK、在るがままでOK」。
> > これが今の私の結論です。

今あるすべてをそのまままるごとを肯定できると、平和で在れますね。
それが、在るの在り方であり、また、成熟したマインドとハートの在り方です。
(状況によっては、必ずしも、現れ的な意味での肯定は難しい場合もありますので、
そのことにただ気づいている、気づいた上で、次の瞬間起こってくる、現れ的な肯定、否定等にも
ただ気づいている、という在り方が、在るのあるがまま、起こるがままの在り方です。)

同じようなことを前述しましたが、苦しみを無くしたい、悟りたいという思いは、そのような在り方に至るため、
あるいは、そのような在り方に気づくための原動力になるとも言えます。
「したい」、「する」を徹底して行っていくことで、それが落ちていく、
あるいは、それが起こってきても、それにとらわれないようになっていきます(気づき方、気づく時期等はそれぞれですが。)
さらには、以前にも書いたことがあったと思いますが、その「する」(「する」の実践)が「在る」に直接つながるもの、
「在るそのもの」となるものであれば(「在る」に意識を向ける等)、より効果的であると言えます。

> > 周りの環境、人間関係、自分の心の状態、すべて認める、許す。それこそが「慈愛」であり、「至福」であり、
> > それによって「心の平和」が維持される。それを悟りと言っても良い。
> > 何の観念、考え、思想も必要ない。

在るですね。
そして、それが在るが浸透したマインド、変容、成熟したマインド、そして成熟したハートの自然な状態、自然な在り方です。
今回のセッションでも、かなりよいところまで詰められている(体験、経験、実感を伴った洞察)とお話しさせて頂きましたが、
そこに、ご自身の体験、実感等を通し、知的にも至られたということは、素晴らしいですね。
その過程で、純化、柔化、洗練等されながらきたマインドも、現時点でのひとつの結論を得たことにより、より落ち着くことができるようになっていくでしょう。

> > ラメッシも、「どんな聖者・賢者が言ったことも観念である」と言っていますが(「誰がかまうもんか」153p)、

在るから、あるがままにそのまま言葉が起こってくることはありますが、それは言葉を通して表現される以上、
受け取る方にとっては観念になってしまいやすいですね。
マインドの自然な傾向により、どうしてもそのようにつかんでしまいがちです。
そのような意味でも、それ(在る、在るの在り方、在るの無限の在り方)を伝える方法、
受け手のマインドレベルだけではない存在全体の自然な変容と促す方法、
あるいは、それを通し、ご自身で気づいてもらう方法は、
言葉よりも、沈黙(沈黙の共鳴)の方がより直接的で、よりトータルで、より適切である、ということが言えます。

> > すべての聖者・すべての聖典も含めて、
> > すべての教えは観念でありフィクションであり仮説であり洗脳であって、それらすべてを捨て去る、脱洗脳することが自由、心の平和につながると私は信じています。

それは、ある意味、起こってくる(Nさんの言葉で言えば、どこからかやってくる)マインド、
教え、聖典をつかんでしまうマインドの自然な傾向から自由になる、ということでもありますね。
それは、ニサルガダッタ・マハラジも「よく調べてみなさい」というようなことを言っていたと思いますが、
今回のNさんのように、体験、実感を通した深い洞察、緻密で洗練された考察により、可能です。

また、すべての聖者・すべての聖典も含めて、すべての教えは、言葉を通して伝わってくる実感の方、
姿かたち、意味内容ではなく、本質的な響きの方を大切にされるのならよいと思いますが、
(それは、それを感じられているご本人の実感であり、真実と言えます。)
言葉にとらわれると、逆に不自由になってしまうことがありますね。
(覚者の言葉等が、ときには、様々なところに注意が向き、うろうろしてして落ち着かない傾向があるマインドを方向付け、
あるいは、ひとつところにとどめ、ある程度のところまで進む指針にもなり、最終的には、その言葉を超えて、
あるいは、捨て去られ、言葉の背後にあるもの、言葉が指し示しているものが分かるようになってくるということもありますが。)

また、書かれてある「信じています」は、単に頭、マインドだけのものではなく、これまでの体験、実感等に基づいた洞察、
そして、在る(真我)を何度も直接体験されてきて(体験の深さ、クリア度合等は人それぞれとも言えますが)、
その「知っている」という本質そのもの、あるいは、ハートから来ている部分もあるように感じます。

> > そして脱洗脳を実践しています。

はい、それが例外なく(今は自分自身と思っていて気づかない同一化している部分等も含め)、徹底的に実践され、
真にあるがままで在れれば、自由、心の平和につながっていくでしょう。

まずは、今自分と思っているものの周りにあるもの(すべての聖者・すべての聖典も含めて、すべての教え)から実践され、
そして、ご自身の感覚、体験、理解等のみを信じ、それを頼りに、それだけに注意を向けていくことで、
今自分と思っているもの(観念、記憶等と同一化している部分等)も洗い流され(純化され)、本質が残るでしょう。

> > それがどこへ向かうのか、それは今の私には分かりませんが、それは自分だけの回答になる気がします。

真には、自分(真の自己・真我・在る)しか存在しませんので、その気、感覚は、本質的に正しいです。

> > つまり、私の悟りと他の人の悟りは同じではないだろう、と思います。

はい、現れ、多様性の世界ではそのように見えることもあるかもしれません。
本質を知る人には、その本質部分においては、言葉、表現の違いを超えて、すべては同じものと見えるかもしれませんが、
現れる形は、それぞれの時代、周囲の状況、環境、それぞれの辿ってきたプロセス等が違うため、違ったものになってくる、
それが、現れ、多様性の世界の自然さであるということが言えます。

> > 何か一つの悟りがある、誰もが認める、絶対的悟りがあるというのは、幻影であるこの世の情報であり、真実ではないだろうと思っています。

ご自身が腑に落ちる解答に出会われたとき(今の結論でよかったというより深くトータルな再認識も含め)、
その解答そのものとなったとき、それは分かるでしょう。

またそれは、どの立ち位置からどのように見るかで変わってくるとも言えます。

ひとつの視点からは、本質、在るの立ち位置、そして、一元性の立ち位置から見れば、悟りはひとつ。
現れ側から、現れた姿形を見れば、多様にも見えることがある、ということが、言えると思います。

(その他、別の視点からは、覚醒した存在のそれ自身に対する理解の深さや広さ等、
また、知ったものを個人の立ち位置から個人のフィルターを通して話しているのか、
在るの立ち位置から純粋に話が起こっているのか等でも、伝わってくるもの、純度、響き、
そして、現れてくる姿形等も違ってくるとも言えます。)

無空庵では、本質は同じであり、ひとつであるが、その見方
(それは、純粋な存在であり、意識であり、無であり、空であり、愛であり、至福であり、
平和そのもの、静けさそのもの、落ち着き・安らぎ・寛ぎそのもの、よろこび、自由、美そのもの、
また、無限そのものでもあり、未知そのもの、すべて・全体そのものでもあり、それをどう見るか、
それがどう見えるか)、捉え方、感じ方、
また、そこからの現れ(あるいは、その中でのゆらぎ)も含め、すべてをどのように見るか、見えるか、
さらには、それがどのように表現されるか、そこからどのような表現が起こってくるかは等は無限である、
というスタンスで在ります。

無空庵で表現として起こってきていることも、無限にある中のたったひとつの視点、捉え方、表現であるとお伝えしています。
(その表現の中に、そのときの状況、流れ等により、ときに、断言、断定が起こってくることもありますが。)

マインドもまた、現れた在る(真我)であり、素晴らしいものでもありますが、その一側面として、
多様性の世界においても、物事を一律的、一面的に考えたがる傾向があります。
また、比較等により、ひとつの真実があり、その他をそうではないものとしたがる傾向がありますが、

ひとつの視点からは、真実(在る・真我)は、美です。

それを、一律的、一面的に考えること、定義すること、はかることはできません。

そしてまた、真実(在る・真我)は、愛です。

幸せそのもの、平和そのものです。

それは、多様な現れ方をします。

この現れの世界に、美は多様に現れ、

愛、幸せ、平和等も、様々な形で現れ、

それぞれの存在に、それぞれの美、それぞれの愛、それぞれの幸せ、それぞれの平和等があります。

(美しいと感じるものはそれぞれでも、美しいと感じている心、ハートは同じです。)

でも、その本質は同じです。

それが現れる源はひとつです。

それが、ただひとつであるもの。

それは、美そのもの。

愛そのもの。

幸せそのもの。

平和そのものでもあります。

それが、ただひとつであるすべて。

すべてであるものからは、すべてが現れていきます。

美そのものから美が現れ、

愛そのものから愛が起こり、

幸せそのものから幸せが溢れ出し、

平和そのものから平和が実現されていきます。

無空庵の記事、また、聖者、覚者の言葉、聖典等の読み方も、マインド的な読み方のほかに、

(「理・り」もまた、ひとつの美であり、愛であるということも言えますが。)

ひとつの美、愛の現れ、幸せそのものの顕現、平和そのものが姿かたちをとって現れている、という見方、

感じ方、味わい方をされてみるのもよいかもしれませんね。

絵画を鑑賞するように。

音楽を聴くように。

風に吹かれるように。

香りを嗅ぐように。


様々な聖者、覚者の言葉、表現も、時代背景や環境、そして、どのような方に対して表現するか等により、

その表現方法も含め、自ずと変わってくるとも言えます。

「何か一つの悟りがある、誰もが認める、絶対的悟りがある」と表現する必要が(全体的な視点からも)ある場合もあるかもしれません。

在るから、ただそのように起こってくることがあるかもしれません。

また、それを語る人のマインドの都合(在る・全体と同調していないマインド)によって、そのように語られる場合もあるかもしれせん。

(そのような場合には、注意が必要です。)

語る側の在り方だけでなく、それを聞く側がどう在るか、ということもとても大切です。
> >
> >
> > よろしくお願い致します。

こちらこそよろしくお願いいたします。

無空
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Nさま

感想ありがとうございました。

> > 無空様
> >
> > こんにちは。Nです。感想を送らせていただきます。
> >
> > 2014,3.3.(2010年11月8日より253回目)
> >
> > セッション:だいたい落ち着いていました。
> > 最近思うことが三つ。幻影論(すべては幻影である)の発展形。
> >
> > 1.無観念説:誰も、何の考え・観念・思想も持っていない。聞かれたら答えるし、話すときに口から出るが、

> > そうでないときはどんな観念も考えも、存在しない。考えはどこからか降ってきて、私を通って出てくる。閃きと同じだ。

とてもよい視点ですね。

覚者方は、ひとつの視点からは、書かれてあるような「誰も、何の考え・観念・思想も持っていない。」をさらに進めて、

誰も存在しない。世界はない。と言っていますね。

変わらない本質という視点、立ち位置からは、そのように見、感じることができます。

また、書かれてある内容から抜粋させて頂きますと、「聞かれたら答える」、「話す」、「口から出る」、

「考えはどこからか降ってくる」、「私を通って出てくる」、「閃き」、これらはすべて現象、起こってくるものです。

この現象という視点から見れば、シンプルには、すべては変わらない源である在る(真我・空)から起こってくるということが言えます。

別の言い方をすれば、考え・観念・思想だけでなく、考え・観念・思想をもっているように見える私(自我・個人)、

あるいは、Nさんが「考えはどこからか降ってきて、私を通って出てくる。」と書かれているところの「私」は、

その都度、在るから起こってきている、

一瞬、一瞬創造されている、

それが時間的に連続しているように感じられている、

あるいは、そのように感じられ、創られているのがこの現れの世界、

それは、在るの本性による自然な創造、在るの自然な在り方、あるがままの在り方、

と言うこともできるかもしれませんね。

そして、変わらない本質とそこから起こってくる現象、変化し続ける現象、起こっては消えていき、

そしてまた起こってくるを繰り返している現象、

これは、まったく別もののようにも感じられるかもしれませんが、

色即是空、空即是色 という言葉があるように、

空と色、源と現れは、ただひとつであるもののふたつの様相、在り様、在り方ということができます。

そしてまた、即それである、そのままでそれである、というところも大事です。

現象として現れているときにも、それはそのまま源でもあります。

色はそのまま空でもあります。

空はそのままで色になります。

書かれてある「考えはどこからか降ってきて、私を通って出てくる。閃きと同じだ。」という視点は、

まさに観念ではなく、考えを受け取り、それが表現されるところにある「私」としての立ち位置での実感ですね。

その「私」に対する理解と、純化をさらに進めていきましょう。

それもまた、起こってきているものとも言えますし、同時に、変わらずにある真の自己、真我、在るであるとも言えますが、

現段階では、変わらない純粋な本質部分と起こってきている現象部分(記憶・観念・自己イメージ・思考等)が

クリアに認識、識別、実感されておらず、ミックスされている状態と言うことができるかもしれません。

また、識別力から、ある意味、さらに進み、起こってきているものをそのまま真我であると見る力(理解、知っているという在るの視点、本質的視点)、

そのまま真我であると自ずと見える視点、立ち位置にまだ開かれていない、ということもできるかもしれません。

(よりクリアで本質的な認識、そして、奥深い理解により、識別と、一元性の両方の視点を持てるようになるといいですね。)

また、在るからの直接的な気づき(在るであること、在るを直接感じていることからの気づき)、感覚、認識等が

起こったとき、感じられたとき、あるいは、それが在るとき、

それをそれまでの思考パターン、マインドのフィルター、マインドの思考傾向を通して、

本当はマインドを超えているものをマインドの範疇におさめ、

(理解しやすいように、理解したいように)理解しようとすること、

もともと土俵が違うものを、マインドの土俵に持ってきて、そこで理解しようとすること、

マインドでつかもうとすることも多くの方の中で起こります。

それはマインドの自然な傾向であり、また、そのときのあるがままの存在全体としてとても自然なことであり、

そのような自然なプロセスを経ながら、マインド、そして、存在全体はより成熟していくとも言えますが、

今のNさんの場合も、そのようなところもあるかもしれませんね。

また、立ち位置に関しましても、在るは、ただひとつの立ち位置にあり、ひとつの視点からしか見ることができないのではなく、

様々な立ち位置にあり、それ自身を様々な視点から見、経験、体験し、知ることができます。

すべては、それ自身である在るから起こっていくという源からの視点と、

「聞かれたら答えるし、話すときに口から出るが、 そうでないときはどんな観念も考えも、存在しない。

考えはどこからか降ってきて、私を通って出てくる。閃きと同じだ。」

と表現されるところ(通って出ていくところ、ある意味、仲介者、媒介者)では、

見え方、捉え方、その立ち位置に対応して起こる言葉等も違ってきます。

すべては在るであるという視点からは、在るはその両方であり、また、その他のすべてであるということができます。

在るは与える者であり、受け取る者である、さらには、その中心に位置し、

━あるいは、「その間に位置する」という視点からみれば、仲介者、媒介者と見ることもできますが。━

全体に気づいている者、あるいは、全体そのものと言うこともできます。

それは、始まりであり、終わりであり、その中間のすべてである。

それはアルファであり、オメガである。

それは、最も大きなものよりも大きく、最も小さなものよりも小さい。

それは、深遠で、微妙なものであり、宇宙万物創生の本源であるが、名づけられるものではないので、

私は仮に「道(タオ)」と呼ぶのだが・・・

等、その在り方等が様々に表現されています。

書かれてある「考えはどこからか降ってきて、私を通って出てくる。閃きと同じだ。」という立ち位置は、

中心であり、また、仲介者、媒介者という言い方もできるでしょう。

そこは、ある意味、源の立ち位置ではないため、現れた在るでもある私(自我・個人)とも言えますし、

また同時に、その核にあるもの、あるいは背景、または、私として現れているもののすべてのそのエッセンス自体は、

純粋な気づきそのもの、真我、在るそのものと言うこともできます。

色即是空、空即是色という言葉からも分かるように、それは、本当は分けることができないもの、切っても切り離せないものとも言えますが、

源と現れ、空と色がミックスされている「私」がさらに純化され、その認識、識別がより出来るようになってくると、

あるいは、さらに進み、真の自己理解、色即是空、空即是色の理解

(真の自己理解のある意味、一側面、一要素として色即是空、空即是色を見ることもできますし、

色即是空、空即是色の中に、すべての理解があるとも言えます━空の理解、色の理解、そして、全体の理解━)

が、存在全体を真に貫かれることにより、

視点、立ち位置のある意味、混濁、あいまいさ等もより整理され、

全体の見え方がもっとクリアになり、よりすっきりしてくるでしょう。

本質、エッセンス(源)と、ある意味、それに付随し、セットで自動的に起こってくる現象、考え等も、

よりクリアに分かるようになってくるでしょう。


すべては在るであり、在るのその玄妙な在り方により、本当は、すべては在るの中で起こっている、

起こることのない中で起こっていることなのですが、様々な立ち位置を持てる在るの在り方により、

考え、閃き等様々な現象が、どこからかやってくる、あるいは、源からその外へと起こっていく等の

感じ方ができます。あるいは、そのように感じられ、体験されます。

ひとつの視点からは、ただひとつであるものである在る(真我・空・純粋意識)は、

その本質においては均質であり、

その中で起こることは、どれだけのことが起ころうとも、まったく何も起こっていない、

幻想、幻影であるということができます。

ただ、在るそのものがリアリティそのもの(まさに、「在る」なのですが。)でもあり、

在るの中で起こる現象、動き、作用は、


(その中には、気づく、ということも含まれます。

それは、ただひとつのものであり、均質で、時間ゼロ、時間がない中で起こっていることであり、

また、気づくということは本質的なことで、気づきそのものの本性、機能とも言うべき側面でもあります。

ある意味、本体としては、不動の気づきそのものとして、

そこから起こるすべての起こり、現象、動きに気づいているものであるため、

気づきそのもの、気づいている意識は、源であるという言い方が許されるかもしれません。

ただ、時間がない中での話なので、マインド的には矛盾する話にもなるかもしれませんが、

気づきそのものがそれ自身に気づく前は、それは何ものでもありません。

それは純粋にただ在るもの、在りて在るもの、純粋な存在です。

実在、実存、それ等言われるものです。

━そういう意味で、意識と在るは同じですが、在るの方がよりベーシックであるという言い方をすることがありますし、

在るが分かるのであれば、意識よりも在るの方をより意識してください。という言い方もしています。

ただ、在るが意識でなければ、それ自身が存在していることにも気づくことができません。

在るを在るたらめているのは、意識であるということもでき、両者を分けることはできません。

ただひとつであるものを、真に分けることは不可能です。

そしてまた、その分けることのできない在ると意識の関係性、

さらには、意識・気づきそのものと、それ自身に備わる“気づく”という機能、作用、本性の関係性は、

前述した空と色、源と現れ、本質と現象、または、幻想と言われるものとの関係性にも、

その対応、関連等を見ることができるかもしれませんね。━

それが、それ自身に気づくことができるから、それは意識であると分かります。

それを意識であるということができます。

気づいていないところから、気づくという話になり、これは時間がありそうな話になりますが、

これが、ゼロ時間、あるいは、永遠の中で起こっていることです。

━それは、永遠の気づきそのものであり、永遠に気づき続けているそれ自身を

自らの自在な視点、あるいは、意図なき本性(そこから意図や意図を持つ個人等は起こってはいきますが)、機能、作用により、

気づいていないところから、気づく、というように見ることができる、体験できる、

ひとつのプロセスとして体験することができる、

それ自身を体験的に知ることができる、

ということができます。━)


かっこ書きの部分が長くなりましたので、

少し前のところから、再掲させていただきます。

ひとつの視点からは、ただひとつであるものである在る(真我・空・純粋意識)は、

その本質においては均質であり、

その中で起こることは、どれだけのことが起ころうとも、まったく何も起こっていない、

幻想、幻影であるということができます。

ただ、在るそのものがリアリティそのもの(まさに、「在る」なのですが。)でもあり、

在るの中で起こる現象、動き、作用は、

その具体的な内容、現れの世界における意味づけ、名前、形、概念等の点においては、

起こっては消えていく幻想(Nさんが言われる幻影論━すべては幻影である━)とも言えますが、

現象、起こることそのものは、まさにリアリティそのものでもある、ということができます。

現象、起こっているというリアリティ(実感)、それが過ぎ去ったあとに残る「空」というリアリティ(実感)。

姿かたちは変わっても、それだけは変わらずに在ります。

(「リアリティ」のほか、別の角度からは、「今」、「気づいているということ、あるいは、気づきそのもの」

そして「在る」ということは、起こっていること、現象、幻想、幻影の内容、

そして、それが起こっている、いないにかかわらず、変わらずに在る、ということができます。)

まだまだ言葉が足りなく、不十分であるとも言えますが、また、機を見て、様々な角度から存在を刺激し、

理解の何らかの助けになればと思います。

> > 2.マインド無能力説:マインド(・知性・知的思考・私)は、何が真理で何が非真理か、何が真実で何がそうでないかを判別する能力を持っていない。

> > ただ、「能力を持っていない」と断定する能力も持っていないから、この考えも真理かどうか私には分からない。

セッションでもお話ししましたが、相対的なこと、現れの世界に関することでは、マインドの働きが必要であり、

(もちろん、在る・真我のトータルな実現の中でも、変容、成熟したマインドが必要に応じて働きますが。)

相対的な正しさ、状況、事情、それぞれの都合による正しさ等を判別する能力、あるいは、正当化する能力はあると言えますね。

相対を超えた真理は、それ自身により、直接知られ、確認され、再認識されます。

そしてそれが、現れにも反映、投影され、マインド領域にも、分かった、というように自然に現れてきます。

(在るそのものによる直知が、マインド的にも翻訳される、あるいは、マインド等現れ領域にも浸透してくるという言い方もできるかもしれません。)

マインドが分かる、マインドで分かるという視点もありますが、

別の視点からは、在るそれ自身による直知が、現れに反映、投影される、

分かったというマインドが起こってくる、という見方ができます。

またさらには、その現れてきたものを通し、その深奥にある本質を、在る・真我がさらに再認識する、

存在全体で知る。

源から現れ、そしてまた源へと存在全体を一巡りして、トータルに知る。

あるいは、すべてはどこへも現れず、すべてはそれ自身の中で起こっているという視点からは、

ただひとつであるものそれ自身の中において“永遠に気づき続けている”というところからくる無限の振動、

(それ自身に気づいているという点からは、距離ゼロのゼロ振動)

それ自身の中において無限の立ち位置、視点等を持てるというところ等からくる無限の反響性、

例えて言えば、無限の角度を持つ無限枚の合わせ鏡によるそれ自身の中における無限の反響性等により、

自分自身を無限に知っていく。

そのように見ることもできます。


> > 3.誰が構うもんか(悟りなどどうでもよい):ラメッシは、「誰が構うもんか(悟りなどどうでもよい)」と思ったら、

> > それが悟りの一歩手前、だと言っていますが、今の私にとって、悟りの重要性はどんどん低下しています。

自分自身を知ること、真の自己(真我・在る・愛)を知ることは、重要だとは言えますが、

(それにより、真に落ち着き、真に安らぐことができます。そしてまた、そこからすべては自然にあるがままに

ただ起こっているということが分かるようになっていきます。

ただひとつであるものの中で、すべては起こっている、ということが分かるようになっていきます。)

それに対するとらわれや、過度な期待等がなくなってきたということであればよいことですね。

> > 悟りなんか本当はないんじゃないか、とも思っていますし。

何を悟りというか、また思うかは、それぞれであるとも言えますが、

それ(在る・真我・愛)自身の再認識、自己理解(直知)ということでしたら、在ります。

言葉で表すと、とても不十分で下手な翻訳にしかなりませんが、

これが本当の自分である、というそれ自身の自覚、再認識、自己理解(直知)、

それを覚醒(自分自身、真の自己、真我にそれ自身が覚醒する、気づく、目覚める)ということができるでしょうし、

その直接的な理解が、マインド等現れのすべてに浸透し、存在全体にその理解が行き渡り、

まさにその存在が、理解そのもの、知っているそのものとなったとき、

あるいは、真の在るがままとなったとき、

(恒常的に)真我が実現されたといってもいいでしょう。

(真の理解は、ゆらがず、減ったり、無くなったりしませんので。)

あるいは、実現された真我がそこに在る、という表現の方がよりよいかもしれませんね。

覚醒(何を覚醒というかもまたそれぞれとも言えますが。)、あるいは、悟りの一瞥体験、

または、一時的な真我の実現を悟りと言ってる場合もあるかもしれませんが、

ある意味、定義などはどうでもよく、そこが問題ではありません。

直知された本質的な理解が存在全体に行き渡り、それが実現されているかどうか、

真の平和、平安、幸せ、愛などが実現されているかどうか、というところが大切であると言えます。

それ(悟り)は、誰かに認められたり、証明したり、してもらったりするようなものではありせん。

それは、ただそれ自身により分かるもの。

(自然にそれが起こった場合、自然にそうなった場合、誰かにそれがそうだと指摘されたり、

確認される必要がある場合はありますが。)

ただそれ自身に落ち着くこと。

ただそれ自身に安らぐこと。

それ自身が証明となります。

それはとても明らかです。

それは、明らかそのものです。


> > これが悟りの一歩手前なのか、単に堕落したのかは分かりませんが、悟りはもういいかなと思っています。

> > 共鳴セッションを始めた3年前の悟りへの欲求を100だとすれば、今は15~25くらいか。

セッションでも話されていたいまだある漠然とした苦しみ、その解消がひとつの鍵となるかもしれませんね。
> >
> > よろしくお願い致します。

こちらこそよろしくお願いいたします。

無空
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