ゼロ意識とは・究極のゴール

ここでは、「ゼロ意識とは・究極のゴール」 に関する記事を紹介しています。

●ゼロ意識共鳴で、真我・無限の愛である本当の自分に目覚め、本当の自分を実現する!

真我はただ在る。ただ自分自身(愛)である。シンプルな生き方。シンプルな在り方。
無空庵で「愛」(存在の愛)と「空」、そして「在る」こと(自分自身であること)の素晴らしさを知る。
悟り・覚醒・変わらない愛と幸せ・心の平安を実現!

無空庵では、スカイプで全国の方を対象に、ゼロ意識共鳴個人セッションを行っています。
個人セッションは、ゼロ(仏教では空)の意識の共鳴ワークであり、心の浄化法、本当の自分を知る方法、無限の愛と自由、心の平和、本当の幸せ、真我覚醒、真我実現を促す方法です。

ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、フーマン、エックハルト・トール、ガンガジ等の言及する「悟り」「覚醒」「真我」「本当の自分」の実現をサポート!メッセージ1 メッセージ2

※多忙のため、セッションに関するお問い合わせの返信には、数日~1週間くらいかかることがあります。また、同様の理由により、読者の方からのご質問にはお答え致しかねます。ブログへのコメントにもお返しできないことが多いと思いますが、あわせてご了承願います。

公開・日々の小さな合同共鳴
※どなたでも、森羅万象あらゆる存在の意識参加自由。
毎日6時、10時、11時、11時40分、13時10分、16時15分、17時、18時、21時 2011・11・3~
(6時以外は、無空庵の基本セッション時間です。)。
各30分(その内何分でも構いません。ただそっと意識を向けてみてください。そして、できる方はご自身の存在感覚、在るという感覚、又は、気づいている意識に気づいていてください。)
※参加された方々の記事。
蓮さん①, wingさん①のびのびさんsatorinさん

公開・週一合同ゼロ意識共鳴
※どなたでも、森羅万象あらゆる存在の意識参加自由。
毎週木曜日21時と21時30分から各30分間。 2011・11・10~
※こちらの記事もご覧ください。合同ゼロ意識共鳴は、集合意識の変容を促す。+感想③
第1回感想①感想②
※参加された方々の記事 しみっちさんWingさん蓮さん




グル(師)は私に自己の本性と世界の本性を見せてくれた。
それを実現したため、私は世界と一つであり、しかもそれを超えているのだ。

私は欲望と恐れのすべてから自由になった。
私が自由になるべきだと論証したのではない。
まったく予期せず、何の努力もなく、私は自由であることを見いだしたのだ。
この欲望と恐れからの自由は、それ以来、私とともにとどまっている。

もうひとつ見いだしたことは、私は何の努力をする必要もなく、何の遅れも軋轢もなしに、行為が思考にしたがうということだった。

私はまた、思考が自己充足するようになり、ものごとがすらすらと、正しい場所に落ち着いていくことも見いだしたのだ。

主な変化はマインドのなかだった。
それは不動で、沈黙し、素早く反応するが、反応を永続させなくなった。

自発性が生のあり方となり、真実は自然になり、自然さは真実となった。

何にもまして、生は無限の愛、幽玄で静穏な、すべての方角に輝き、すべてを抱擁し、すべてを興味深く、美しく、意味深くする幸運なものとなったのだ。


青空

今回は、エックハルト・トールさんのニュー・アースから

自分を何らかの対象に同一化する意識ではなく、意識そのものとしての自分というアイデンティティに気づく。
これが神の平安である。

無空:
意識がそれ自身に気づく、ということですね。
それが平安であり、また、悦びであり、愛そのもの、神(無)が自分自身を愛している状態。

それは絶対的なもの。

無(神)には、自分自身に気づくという能力があり、それが意識という側面。

気づき(意識)は、愛であり、悦びであり、光であり、生命そのもの。

気づきが、自分自身を愛し、自分自身に悦びを与え、自ら光り輝き、自らに生命を与えている。

なぜなら、それ以外何も存在していないから。


すべては、無であり、神であり、意識であり、愛そのものであり、気づきそのものの中で起こっている事。

意識(気づき)が自分自身に気づくという中で、全宇宙、全次元の現象、幻想、物語は起こっている。


すべては仏陀の掌の上、愛の中で起こっている事。

神の愛、神の悦びの中で起こってる事。


神とはあなた自身。

純粋な意識であるあなた自身。


純粋とは、それ以外何も存在しないということ。


だから、絶対安心、絶対安全。

すべては自分自身の中で起こっている事。


それを知り、意識そのものである自分自身に気づけば、自分自身の中で寛いでいられる。

それは、絶対的な平安。

それが、神の平安。


全ては自分だった。

全ては愛だった。

本当は、悦び以外何も存在していなかった。

本当は、何も起こっていなかった。


神(無)の中で、神(無)がどれだけ動いても、純粋な神の中には、それ以外のものは何もないので、何も起こっていない。

愛の中で、愛がどれだけ愛しても、何も起こっていない。
全てが愛だから。

悦びの中で、悦びがどれだけ悦んでも、何も起こっていない。
悦び以外何も存在していないから。


愛しかない、悦びしかない。

それ以外何も起こっていない。

愛があるだけ、悦びがあるだけ。

それ以外、何も存在していない。

それが神の平安。





昨日に続き、ラマナ・マハルシ(マハリシ)の本「あるがままに ラマナ・マハルシの教え」より。

愛そのものが神の姿である。
「私はこれを愛さない」「私はあれを愛さない」とすべてを拒絶していくと、拒絶しきれないものが残る。
それがスワルーパ、真我の無形態の形態である。
それは純粋な至福である。
純粋な至福、神、アートマ、好きなように呼ぶがいい。
それが帰依、それが真我の実現、それがすべてである。
 
あなたがこのように拒絶すると、ただ真我だけが残る。
それが真実の愛である。
その愛の秘密を知った者は、世界が普遍の愛で満ちていることを知るだろう。
 
真我の本性である愛を知る人にのみ、強くからまった生のもつれは解きほどかれる。
愛の高みに達した人にのみ、解脱は成就される。
それがすべての宗教の本質である。
真我の体験とは愛である。
それはただ愛だけを見、愛だけを聞き、愛だけを感じ、愛だけを味わい、愛だけをかぐ。
それが至福である。





われわれが想念からまぬがれているとき、われわれは生まれつき至福に満たされている。二つの想念の間にある空白がわれわれの本当の状態であり、それが実在の真我である。

無空:
私たちは、本来至福そのものであり、それを覆い隠しているのが想念、思考です。
二つの想念の間、思考と思考の間に気づきましょう。

そこには何もありません。
何もないことに気づいている本当のあなた以外には。

そのあなたは完全に自由であり、広大な広がりであり、透明で、無限に豊かで、幸せそのものです。