■メッセージ・つぶやき・詩など

ここでは、「■メッセージ・つぶやき・詩など」 に関する記事を紹介しています。

●ゼロ意識共鳴で、真我・無限の愛である本当の自分に目覚め、本当の自分を実現する!

真我はただ在る。ただ自分自身(愛)である。シンプルな生き方。シンプルな在り方。
無空庵で「愛」(存在の愛)と「空」、そして「在る」こと(自分自身であること)の素晴らしさを知る。
悟り・覚醒・変わらない愛と幸せ・心の平安を実現!

無空庵では、スカイプで全国の方を対象に、ゼロ意識共鳴個人セッションを行っています。
個人セッションは、ゼロ(仏教では空)の意識の共鳴ワークであり、心の浄化法、本当の自分を知る方法、無限の愛と自由、心の平和、本当の幸せ、真我覚醒、真我実現を促す方法です。

ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、フーマン、エックハルト・トール、ガンガジ等の言及する「悟り」「覚醒」「真我」「本当の自分」の実現をサポート!メッセージ1 メッセージ2

※多忙のため、セッションに関するお問い合わせの返信には、数日~1週間くらいかかることがあります。また、同様の理由により、読者の方からのご質問にはお答え致しかねます。ブログへのコメントにもお返しできないことが多いと思いますが、あわせてご了承願います。

公開・日々の小さな合同共鳴
※どなたでも、森羅万象あらゆる存在の意識参加自由。
毎日6時、10時、11時、11時40分、13時10分、16時15分、17時、18時、21時 2011・11・3~
(6時以外は、無空庵の基本セッション時間です。)。
各30分(その内何分でも構いません。ただそっと意識を向けてみてください。そして、できる方はご自身の存在感覚、在るという感覚、又は、気づいている意識に気づいていてください。)
※参加された方々の記事。
蓮さん①, wingさん①のびのびさんsatorinさん

公開・週一合同ゼロ意識共鳴
※どなたでも、森羅万象あらゆる存在の意識参加自由。
毎週木曜日21時と21時30分から各30分間。 2011・11・10~
※こちらの記事もご覧ください。合同ゼロ意識共鳴は、集合意識の変容を促す。+感想③
第1回感想①感想②
※参加された方々の記事 しみっちさんWingさん蓮さん

今回は、セッションを受けられている方への返信の流れから出てきたもので、長くなった部分がありましたので、先に抜粋してご紹介させて頂きます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
> 「こんな流れでなくてはいけない」
> 「こんな状況で進まなければいけない」というイメージを
> 良しとして、決め込んでいるのは個人(マインド)ですね。

そうですね。
全体がすでに大丈夫と分っていると、いろいろなところでひっかからなくなります。
>
> どんな流れでも、どんな状況でも、
> どんな1コマでも、それは完全で、
>
> 起こるべくして、起こっているのですね。

そうですね。
まずそれは全体として完全です。
そして、ある意味、部分(1コマ)に見えるようなところの様相は、
その時々で様々な要素が関係してくるので無限に変化します。
でも、それぞれの状況により様々な様相を呈する部分(1コマ)に見えるようなところの本質は、やはりどのような現われ方をしていてもそれぞれが完全です。

真我の視点からは、不完全と不完全を足して完全になったり、
部分(半分)と部分(半分)を足して全体(ひとつ)になるのでなく、
完全と完全を足して完全であり、全体と全体を足して全体です。

全体の部分に見えるようなところ、プロセスのその一部分(1コマ)に見えるようなところも、
それぞれが全体そのものであり、全体が世界に現われる時、
あるいは、全体が世界として現われる時にはそのように現われます。

なぜなら、それは本来分割不可能なものであり、そしてそれ以外存在するものがない、
ただひとつのものだからです。
(分割不可能なものを分離しているように感じるさせる役を担っているのが
マインドとして現われている全体とも言えます。)

唯一存在し、変わらないものとは全体です。

またそれは、存在する存在性そのもの、

その前に、~が(在る)、とつかない 「在る」です。


在るという存在性そのもの

在るというその絶対的な事実

それだけが在ります。

それは分割不可能で、増えも減りもしない不動不変の全体です。


そしてまたそれは愛でもあり、みなさんひとりひとりが、
完全で完璧な愛そのもの、全体そのものでもあります。

ひとりひとりが、その本質においては完璧で完全ですが、
それが現われた世界ではそれぞれに個性があり、特徴があります。
年齢も違えば、体格、性格、能力等もみんな違います。
それは存在(真我・全体・愛)の無限の素晴らしさが多様となって現れたものと言えるでしょう。

そして、それぞれ個性、特徴などの違いがあるゆえに、
ときに助け合い、支え合い、補い合ったりすることも起こりますし、
また、お互いよい意味で刺激し合ったり、高めあったりということも起こります。
共鳴もまたそのひとつでもありますが、絶対(全体・存在・愛)が相対、多様な世界へと現われることで、
絶対が絶対レベルだけでは為しえないこと、
ただひとつのものがただひとつで在ったままでは不可能なことが起こります。

それは、絶対以上、全体以上、無限以上、
あるいは、絶対を超えた絶対、全体を超えた全体、無限を超えた無限、
またそれは、2や3や無限の多様性をも含む一元性とも言えるかもしれません。

そこには計り知れない奥行き、広がり、深みがあります。

現われざるものが現われ、動かないものが不動のまま動き出します。

沈黙が、静寂が、話し出します。

不変なるものに、それ自体は変わらないまま、深化、成長、変容が起こり始めます。

絶対そのものが相対という視点を内に持っていること、
ただひとつの視点、在り方しか持たないものが、無限の視点、無限の在り方を内包していること、
全体が部分という見方を自分自身に許していること、
無限自体が自分自身を限定することを容認していること、

自由が自らに不自由を課していること、
無境界であるものが境界をつくり、分離した視点をそれ自身に認めていること、
完全そのものが、それ自身が不完全な在り方をするということを受容していること、

その本性でもある深い愛が不可能を可能にし、超えられないものを超えていくということを可能にしている、とも言えるかもしれません。

そして、そのような理解があれば、

部分という全体、
限定の中にある無限、
不自由さの中でも生き生きとしている自由、
あるいは、規律の中の自由、
境界を持つ無境界、
不完全の完全 

というものも見えてくるかもしれません。

そのような全体性の視点から見るならば、
ひとりひとりそれぞれ個性、特徴等を持った現われ同士が、
ある意味、お互いの足らない部分、得意ではない部分などを補い合い、
助け合ったり、支えあったりするということは、
単独で完全であること、完璧であることと同等、
あるいは、それ以上の素晴らしきものがそこにはあるということが見えてくるのではないでしょうか。

また、現われの世界の中では、いわゆる相対的な意味での、間違い、失敗、
あるいは、予定通りにいかないこと、複数の中で意見が合わないことなども起こりますが、
それらも同様に見ていくことができます。

完全でしかないものは間違うということができません。
完全そのものが失敗を体験するということは不可能です。
そこには遊びの部分(または、学び、成長、進化の部分)、余裕、ゆとりとも言うべき幅が一切ありません。
それはある意味、とても不自由で、窮屈で、また味気ないものとも言えます。
(本当は、その本質は、絶対的な至福、悦びそのものでもありますが。)

そこに、本質的には絶対完全である全体が、その本性から、
自らに自由(遊び・学び・変化・動き・幅)を与えたのが、この現われの世界とも言えます。

絶対に完全完璧で間違いが起こらないという、ただひとつの事実しかないところから、
視点、焦点、見方、在り方の変化、ゆらぎにより、
その本質は変わらないまま、そのバリエーションのひとつとして、
現われ(現象・幻想・体験)のレベルで、相対的な意味での何かしらの間違い、
失敗、予定どおりいかないということ、ずれが起こります。
(もちろん、本質である完全完璧のバリエーションは、相対的な間違い、失敗等に限らず、相対的な正しさ、成功など無限のバリエーションがあります。)
そのことにより、どれだけの可能性、自由、その広がり、深まり、奥行き、幅、味わいが生まれるでしょうか。

それはひとつの視点からは、閉じた絶対、閉じた自由からの開放、
現われへと、そして、全体それ自身へと開かれた可能性、開かれた自由とも言えるかもしれません。

それは、全体であり、ひとつであるものの絶対完全、絶対安心、絶対安全を背景にした、
あるいは、その中で起こる全体それ自身への贈り物

愛であり、また、許しでもあり、

そのいくつかの例をあげれば、それは、

間違うことの正しさであり、
失敗することの成功、
ちょうどよくないちょうどいい、
不完全の完全です。

相対的な間違いは、真の正しさのひとつのバリエーションであり、
相対的な失敗も真の成功のひとつの現われであり、
ちょうどよくない、間に合わない、不完全もまた、
それぞれ、絶対レベルにあるちょうどいい、間に合う、完全のバリエーションであり、
それと相反するものではありません。

同じく、すべての感情、すべての思考も、絶対レベルの愛の現われです。

また、深い愛からの区別、不平等の平等、不公平の公平なども起こることがあります。
それらを平面的なマインドで理解することはできません。
すべてを一律にするような相対的公平、相対的平等が、必ずしも真の公平、真の平等
というわけではない場合があります。

マインドの領域しか知らず、そこに巻き込まれていては見方が限られてしまいますが、
本質を知り、全体を知れば、現われのたった一コマ、一場面、一部分、ひとつの取り扱いの中にも、想像もできないような無限の素晴らしさ、奥行き、広がり、深さ、全体性、完全性、深い愛、真実、美しさ、味わいが秘められているのが分ります。

そして、その1コマ1コマが無限にあり、それらが他のすべての1コマ1コマと無限に関係し影響し合っているのが、全体が全体のまま、全体を構成する部分としても現われている現象世界です。
それはやはり、ひとつの視点からは、全体を超えた全体と表現してもいいかもしれません。


そしてその全体を超えた全体の素晴らしさは、もちろんこれまであげた相対的な間違い、失敗、不完全というものだけに限られるものではありません。

その素晴らしさは、現われの世界にあるすべてのものの中にあります。

相対的な正しさ、成功、完全、ちょうどいい、そして、人と人との分かち合い、助け合い、支え合い、現われの中で起こり感じる愛、感謝、やさしさ、思いやり、その他あらゆるものの中にそれは在ります。

それは、完全に満ちたもの(絶対・全体)から満ち溢れだした愛、こぼれ落ち、実り落ちた豊かさ、悦びと幸せ。

不動から生まれた動。

静止から生まれた躍動。

不変から生まれた成長、進化。

生命そのものから生まれた 生きる ということ。

一なるものから生まれた多様性。

ひとつの視点、ひとつの在り方、ひとつの角度から生まれた、無限の視点、無限の在り方、無限の角度。

無音から生まれた無限の音、無限の旋律、無限の調べ、無限のハーモニー、無限のシンフォニー。

無味無臭から生まれた無限の味わい、無限の香り、無限の芳しさ。

無色透明から生まれた無限の色合い、無限の色彩、無限の彩り。

無知から生まれた無限の理解、無限の認識。

無から生まれた無限そのもの。

無限から生まれた無限以上。

個人として現われ、個人がないことを知り、個人がいない素晴らしさ、気楽さ、軽やかさを楽しむ。
全体が全体として、それ自身を味わう。
透明な個と全体はひとつとなり、もはやそれらの呼び名さえ、ただの便宜上のもの、視点の違いでしかなく、
そこに在るのは、ただそれだけ。
愛だけと知る。

個人はいない、
愛だけが在る、と知る者同士が協力し合う、
共鳴する、

空と空の共鳴、
真我と真我の共鳴、
愛と愛との共鳴、

ただひとつであるものが、共鳴し合う

それは不可能を可能にしているとは言えないでしょうか。

そこには、ただひとつのものである存在の妙、存在の不思議、存在の奇跡、存在の奥深さ、存在のそれ自身に対する深い愛が在ります。

そして、それは自覚、認識しているしていないにかかわらず、いつも普通に起こっています。

それが何よりの奇跡です。

それが変わらない愛です。

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今回は、セッションを受けられている方への返信の流れから出てきたものを抜粋してご紹介させて頂きます。


在ること

すでにそれが、自分自身に対して、そしてすべての存在に対しての愛であり、祝福です。

必要なのは、これからそうなるのではなく、すでにそうであること、今そうであることに気づくこと、それを理解すること、それを深く受け容れていくことです。

そして、それをどこまでもより深く知っていき、再認識し続けていけば、
その愛と祝福はどこまで大きく広がり、そして、どこまでも深いものとなり、また、どこまでもやわらかく、どこまでもやさしく、どこまでも微細なものとなり、すべてを包み込んでいくでしょう。


皆さん、自分自身が存在していること、在ることがどれだけ素晴らしいことかをまだ知りません。

無限の宝は、自分自身が存在しているというそのものの中に在ります。

それを知らないため、何か欠けていると思い、外側から何かを付け足して補おうとしたりします。

ですが、本質という点において、それはまったく必要ありません。

すでに皆さんは在ることで完全であり、満ちています。

それは愛そのもの、祝福そのものです。

それは、在るだけで自分自身を満たし、そして、それは溢れ出し、すべての存在、全宇宙をも完全に満たしています。


なぜ、満ちている、満たされていると分るのか。

それは、あなたも在り、すべての存在も在り、全宇宙も在るからです。

在るということが、すでに何も欠けるものがなく、満ちているということなのです。

半分だけ在るということは不可能です。

在るという中に必要なすべては在ります。

それを知っていきましょう。


無限の愛と祝福そのものであるのが皆さんです。

今でも、在るだけで、自分自身、そして、すべての存在、全体のために、本質的に役立っています。

必要なのは、本質である自分自身を知ること、思い出すこと、その素晴らしさを再認識すること。

それだけです。

すでにそれは在ります。

それは、あなたが在るという中に在ります。

それを知っていきましょう。

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今回は、セッションを受けられている方へのコメントの流れから出てきたものですが、一般的なものになってきましたので(その他多くのコメントもそうですが)、最近入ってきた情報等も補足し、別記事としてご紹介させて頂きます。

セッションを受けられている方の

> マインドの巧妙さに見事にしてやられ(笑)
> 少しは空を体験していたように感じていたけれど
> いやいや何もわかっていなかった(^^ゞ

という流れから出てきたものです。

***************


マインドはどこまでも主体となり、主導権を握り、物語をつくりたがります。
相当クリアになり、共鳴はとても深く素晴らしい状態になっても、
また別の状況のときには、いつのまにか主体がすり替わり、気づかないうちにマインドが主になっていたりすることがあります。

真我を知るまでは、認識できている範囲内ではずっとマインド主体できたわけですから、真我を知っても、マインド主体のパターンはすぐには落ちず、その習慣の力はしばらく継続して働いていきます。

真我を知って(覚醒して)、その時には、真我それ自身の直知による再認識も起こりますが、分った(悟った、覚醒した)と思っているのはマインドです。(それがマインドがあると気づいていればOKです。)

また、別の視点から見ていきますと、覚醒(再認識)が起こったときのマインドでの純粋な理解の部分と、“自分は分った”という存在の主体としての位置にいるマインドとは違います。後者は自我(エゴ)ですね。

覚醒(再認識)が起こるときは、ある意味、真我自体がトータルに直知する部分の他に、それをマインド的にも翻訳して理解する部分があると言えますが、それは常に気づきとして在る真我が“マインドを通して知るの”であり、マインド(自我)が知るわけではありません。

自我であるマインドができるのは、真我が直知と、そしてマインド(理解するマインド)を通して知った純粋なものを、ある意味、横取りし、自分のものとして所有することだけです。

“真我が”マインドを通して知るのであり、

“マインドが”マインドを通して知るのではありません。

知る真の主体は、マインドではなく、気づきそのものである真我です。

“マインドで”知ることはできますが、“マインドが”知ることはできません。

このように理解しておくことはとても重要です。
この点に注意深くあれば、マインドが主体になることはないでしょう。
知る者、体験者、観照者としてあるのは、常に真我(無・空)です。
マインドが知ったように感じられますが、注意深く見れば、
常にその核には真我が在ります。
それは気づいている意識です。

それを、マインドは、“私が知った”、“私が体験した”、“私が観た”としますが、
マインドは起こったり消えたりする一時的現象で、真の主体にはなりえません。
真の主体は気づいている意識であり、真我であり、永遠不滅の在るです。

真我を知り(覚醒して)、そのような理解が起こり、源と現れの違いが明確に分るようになってはじめて、それまでのマインドのパターンから解放され、真我に確立していくための“スタート地点に立てた”と言えるのであって、そこからが悟後の修行と言われるところになります。

(覚醒の段階で、かなりマインドの成熟が進んでいれば、その後はとてもスムーズな流れになりますが、それぞれの気質、タイプ、それまでのマインドのパターン、その強さ等により、覚醒後の歩みはまったく人それぞれであるとも言えます。
(ちょうどこれを書いているときに、リンクさせて頂いているまるまるさんのブログで参考になる記事が投稿されていました。「ところん、自分のペース」
マインドが未成熟の段階で、何か不自然で強制的な修行や行法、あるいは、事故的なもので覚醒が起こった場合などはその後の歩みがかなり大変になる場合等もあります。)

そういう点で、どこまでも謙虚さと注意深さは必要です。

最近、無空庵と、無空庵で直接共鳴セッションを受け、ご自身でもセッションを提供されている方以外でも、共鳴のエッセンスを取りいれ、セッションやカウンセリング等をされている方々が増えているようですが、
(無空庵とはまったく関係ないところで、「ゼロ意識共鳴セッション」というセッション名でセッションをされている方もいるようです。)

特に、セッションを提供し、真我の確立へと導いたり、サポートしたりする立場に立つような場合には、共鳴中以外でも、真我が主体として在ることが大切です。

深い共鳴が起こせる“個人”ではなく、

深い瞑想ができる“個人”ではなく、

主体が真我(愛)となっていることが大切です。

共鳴中だけ真我で、その他は個人が主体となっている場合には、いくら深い共鳴が起こっても、トータルで導ける所はそれなりのところにとどまってしまいます。
彼方まで導くことは不可能です。
(受け取る方が、準備ができていて勝手に進んでいく場合はもちろんありますが。)
また、実際起きているようですが、逆に迷わせてしまうこともあるでしょう。

それから、個人の部分を大切したいという考え方がありますが、その現われである個人の部分がもっとも輝くのは、100%真我に明け渡しているとき、あるいは、真我そのものとして100%真我の立ち位置に在るとき、ただ在るときです。(分りやすい言葉で言えば、無心であるときとも言えますね。)

厳しい言い方ですが、中途半端な理解で個人を認識し、中途半端な状態のままで個人を擁護していると、足元をすくわれることになります。
(上にも書きましたが、実際、共鳴のエッセンスを取り入れられているところで、迷いに入っているケースや、マインド的な在り方になってしまっているケースがあるようです。)
そのような場合(中途半端な理解で個人を認識し、擁護している場合)、極端に言えば、99%真我でも、1%の個人(マインド)がいつも控えていて、大事な時に主導権を奪われる可能性があります。

以前、「真我の世界と現実世界を両方都合よく欲しがっている自分がいます。」という記事の中で「「いいとこ取りしたいマインド」と書いたことがありますが、ここも大切なポイントです。

個人等現われの部分がもっとも大切にされ、同等に愛され、真に輝くのは、両足でしっかりと真我の場に立っているとき、真我に立脚しているときです。
(Wingさんの4月20日の記事「真我」にあるような、真我に立脚した状態にあるときですね。)
片足マインド(個人)、片足真我というような在り方は、都合のいいマインドの考え方です。
(真我は、それも深い愛で容認しますが。)
マインドが考える、「マインドを大切する」、「個人が大切する」というのは、多くの方(マインド)には受けがよく(特に、真我の視点、真我の知識をマインドを使った場合、多くの方に影響が出る場合があるでしょう。)、賛同されることも多いかもしれませんが、本当の意味では、マインド(個人)を大切にできていません。
必要、状況に応じて、一時的にそれが有効なことはありますが、それはマインドに対する真の愛、真の受容ではありません。

個人の部分を本当の意味で大切にしたいのなら、個人を超え、全体として在ることです。

ただそれ自身(真我・在る・愛・全体)で在ることで、それ自身とその現われすべての面倒を見ることができる真我(全体・在る・愛)として在ることです。

個人を超えず、あるいは、片足だけ真我にあって、片足は個人の領域に残したまま、マインドで個人を大切にしようという態度を保っている場合、真我の方に完全にシフトしたくない個人が巧妙に抵抗している場合があります。
(それを個人の抵抗だと気づいていればOKです。あるいは、今はプロセスの途上にいるという理解があればOKです。)

真我に立脚していれば、自然と個人を含めたその現われのすべてを大切にし、愛することができます。

これは、ニサルガダッタ・マハラジが、「世界を改善したいなら、世界を超えていくことだ」、と言っていることと、ある意味、同じです。
これまでの覚者方が、マインド(個人)は幻想である。マインドを超えていく必要がある。というようなことを言って来た真意、その深い愛を深く知っていきましょう。
それはマインドにはとても厳しく聞こえるかもしれませんが、それは厳しいほどに深い愛なのです。
それはけっして現われの部分を否定しているわけではありません。

分離と制限があり、変わり続ける現われがすべてだと思っていて、そこに巻き込まれ問題を抱えている状態にある方々には、まず、分離がなく、無限で不変である源が在ること、そしてそれが本当の自分であることを伝え、それを指し示し、変化しない絶対安定の源と変わり続ける不安定な現われの違いを明確にし、その立ち位置を絶対安心、絶対安定の源(真我・真の自己)にシフトするよう促すことは、真実を知った先達たちの真の善意であり、深い愛です。

そして、その真の善意、深い愛に導かれ、絶対安心、絶対安全、不変不動、不生不滅である真我に確立すれば、変わり続ける不安定な現われが栄光化されます。
それまで不安定と見えていたものが、素晴らしき真我の現われの永遠の躍動、変容し続ける真実の美、光、愛、調和の現われに一変します。
絶対安心、絶対安定の中で、変化(現われ)を楽しむことができるようになります。

中途半端に、マインドをマインドで擁護するのは、根本的な解決にはなりません。

(真我の立ち位置に立ち、それにマインドが沿う形ならばよろしいですが。)

ときに、状況、必要に応じてそれはあってもいいですが、それが常の態度としてあると、いつのまにかマインドが主体となり、いざというときには、マインドが主導権を握っているという状況が続くでしょう。

それを変えるためには、マインド(個人等)を超えて、ただ在ることです。

起こってくるマインドに対しては、ただ気づいていることです。

それが、真我のマインド(個人等)に対する愛です。

マインド(個人等)はもともと真我から生まれた真我そのものでもあります。

個人を個人の場に置いたまま、その場に執着したまま、栄光化することはできません。

個人を脇に置いたままではなく、個人も含めた存在全体が真我に溶け、透明になることではじめて、個人は、真我そのもの、愛そのものの純粋な現われとして、真の輝き、無限の光を放つようになります。

何度も、真我に戻ることを繰り返していくことにより、徐々に存在全体としてトータルに透明になっていくでしょう。

個人も含めたマインドは真我に溶け、そしてまた、真我であることを思い出した新しいマインド(成熟したマインド)として帰ってきます。

働きとしてはそれまでマインドと言われてきたものとある意味同じですが、自己理解が進んだ者にとっては、それは真我(愛)以外の何ものでもありません。

ただひとつの愛だけが存在しています。


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2012年が、真我(無限の愛)から明けました。
それは、2011年からの続きではなく、ゼロ(無・空)から起こったまったく新しいものです。
そこには無限の可能性が開かれています。
その新しさを祝い、6時からはいつもの日々の小さな合同共鳴、そして、6時45分から7時25分までは、日本全国の初日の出タイムに合わせ、意識参加の形で、初日の出合同ゼロ意識共鳴が起こります。

真に新しいそれ(真我・真我の共鳴場)にそっと意識を向けて、そのまったき新しさをお祝いしましょう。

***** ラムサ・ホワイトブックより **********************

あなたが次に見る夜明けは、「私自身である神を見よ」という視点からのものとなる。
そして、あなたは、在るものすべての荘厳さ、美しさに心を奪われるようになるのだ。
なぜなら、あなたは今や、何も語らぬこの力の光と推進力、そして絶え間ない継続性と一体だからである。
 ひとつの真実を学ぶことと、その真実そのものになることはまったく別のことである。
しかし、そんなことを思ってもいない時に、あなたは起き上がり、このような壮麗な光景を天空に見るのだ。
そして、ただ在るという安らかさを通して、この真実を「知っている状態」が現実となるのだ。
ある素晴らしい朝に・・・・・・。

****************************************

あなたは、新年を生み出す源でもあり、それを迎えるものであります。

朝、目を覚ましたら新しい一日がそこには在ります。
朝はあなたを待っていたのでしょうか?
それとも、あなたが目を覚ますと同時に、それはあなたから生み出されたものでしょうか?

すべてはあなた自身であり、ひとつのものでありますが、そのひとつのものの中に内包され、それ自身の中で展開される無限の関係性という視点から捉えた場合、あなたはその両方でもあります。
あなたは朝を迎えるものであり、朝を生み出すものでもあります。
ただひとつであるものは、それ自身の中に在る無限の関係性の中で、そのように両方の立場、あるいはすべての立場に立つことができます。

その無限の関係性、無限の立場から、無限の視点、無限の角度が起こり、それ自身の中で、無限のエネルギー(愛)が無限に反響し合い、交流し合い、影響を与え合い、無限に高められ、無限に溶け合い、さらに、それ度、ひとつ度、そして、無限度が無限に増していきます。

それ自身の中で、無限に進化、深化、成長する変わらざる者。一なるそれ。
それが本当のあなたです。

あなたが目覚める前からすべては在り、そしてまた、あなたから新しい朝が生まれ、新しい一日、新しい世界が更新され、繰り広げられていきます。

常に在るなつかしさにくつろぎ、そして同時に、常に在る新しさを楽しんでいきましょう。

今年もよろしくお願い致します。

無空

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今回は、今朝の記事でも登場されたセッションを受けられているニューヨーク在住のH.Kさんから、本日、また素晴らしい感想メールを送って頂きましたので、それをそのままご紹介させて頂きます。

(セッションを受けられている方の人数が多いため、通常、体験談は、送って頂いてから平均約2週間後くらいの掲載になっています。
また、今回送って頂いた感想の返信メールは後日紹介させて頂きたいと思いますので、今回の記事は、カテゴリのメッセージのところに分類させて頂きます。)

前の記事・クリスマスメッセージにも書きましたが、このような感想を送って頂くと(その他、本日ご紹介させて頂いたY.Sさん、悟空さんはじめ、皆さんの感想もまったく同様です。)、本当に、皆さんに出会えてよかったと思います。
素晴らしいご縁を頂きまして、本当にありがとうございます。

再度、前の記事で紹介した辛島美登里さんのMerry Cristmas To You の歌詞ではないですが、

もう一度、この場をかりて、

セッションを受けられている皆さん(これまで受けられた方も含めて)、

ayaさん、Mさん、YUさん、A.Yさん、Lさん、MI(senry1)さん、S.K(虹子)さん、
S(しみっち)さん、M.Sさん、K.M(のびのび)さん、Hさん、SAさん、R.Mさん、
Y.Kさん、KOさん、I(ヒロ)さん、Eさん、M.Tさん、M.Hさん、Nさん、Kさん、
O(NORIKO)さん、Aさん、K.Iさん、S.Oさん、N.Kさん、MN(Wing)さん、
LM(タユタ)さん、T.A(ゆらき)さん、蓮さん、H.Cさん、かまらさん、G(かたやま)さん、
Rさん、R.Uさん、HAさん、T.S(嶋田)さん、Yさん、N.Yさん、T.Oさん、KYさん、
M.Oさん、y,wさん、マルさん、rubyさん、K.Uさん、M.Uさん、KAさん、E.Wさん、
Y.Hさん、Y.Aさん、K.Nさん、SHさん、A.Iさん、pariさん、T.Mさん、T.Tさん、
Y.Mさん、悟空さん、A.Aさん、MAさん、H.Kさん、Y.Sさん、青さん、みりいさん、
SAKUさん、C.Nさん、ふわりんさん、M.Fさん、ナターシャさん、TEさん、
体験談には登場されていない、濱田浩朱さん、S.Nさん、K.Tさん、K.Kさん、Y.Aさん、
Y.Kさん、M.Tさん、他皆さん。

リンクさせて頂いているラピ。さん、まるまるさん。

コメントを頂いてるHARIMANさん、ラブ☆マエピ さん、ぽこたんさん、ラブ◇マヨ さん、
ファンの一人さん、*yuu*さん、モナカ寅次郎 さん、めぐさん、
そして、はじめてブログにコメントを頂き、お世話になりましたchristさん、他皆さん。
(最近は、多忙のため、コメントのお返しができなくて申し訳ありません。)

そして、いつもブログを読んで頂いている皆さん、そして、これまでご縁のあったすべての皆さんへ

本当に会えてよかった。

今度は私から

もう一度、愛と感謝を込めて

Merry Cristmas To You !

           
無空


では、今朝、ニューヨークから届いた感想です。

*********************************

無空さま

先日は、セッションをありがとうございました。
感想を送ります。
この一言を書いただけで、胸がじいんとしてきます。

全ての存在そのものが、奇跡であり、恩寵である…
そのことを、共鳴で感じることができました。

セッションでは、無空さんに、「どんなかんじですか?」と聞かれて、
もう、そこから出られず、
感じたことを言葉で表現できず、
口に出せば、全く違うものになってしまい…

いつも、言葉が見つからないのです。
それは、自分の知っている言葉、世界を超えているので。
あらゆることを含み、ますます拡張していくようです。


全て
木も、動物も
海も、空も
愛する人達も、町行く人も
子供たちも、老人も
風も、雨も

全てが、奇跡。
この体も奇跡。

花が花であるように
猫が猫であるように、

私には、もはや名前などはいらず、
人であるだけでよいのだ、と感じました。

セッションの終わりごろには、もうただ感謝だけになりました。
それは、湧き上がる喜びと愛でもありました。


日常では、「在る」の意識にいるのか、それとも個の私にいるのか、
境がなくなってきています。
嬉しい楽しい毎日です。平和であるのですが、なんだか活発にもなりました。

そして本当によく笑うようになりました。
逆に、悲しいと感じることは、もうありません。
絶望の中にいた子供のころや、昔を思うと、こんな日がやって来るとは!

本当にありがたいです。

また、来週もどうぞよろしくお願いいたします。

H.K

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